「役人になるなら宮内省がいい」と話す根暗な青年
相原尚褧の生年や誕生日ははっきりしませんが、調書や判決文で事件のあった1882年(明治15年)当時28歳であることがわかっています。これから推測すると、1854年(嘉永7年・安政元年)の生まれではないかと言われています。
尚褧は、尾張大納言家の納戸役を務めていた父・仙友の次男として生まれます。禄高は150石で、名古屋撞木町に暮らしていました。
それなりの生活を営んでいたところに起こったのが明治維新でした。
廃藩置県後に相原家は生活に逼迫するようになります。
さらに、仙友は先妻の産んだ長男と反目し合うようになり家を出てしまい、残った尚褧、三男、長女、次女の生活は尚褧の双肩にのし掛かることになりました。
尚褧は1880年(明治13年)、師範学校在学中に職を求めて上京するも適当な仕事がなく、神田の於玉ヶ池(現在の東京都千代田区岩本町2丁目5番地の辺り)近辺に寄宿して、著述家を目指します。
江戸時代後期に頼山陽が著した国史の史書「日本外史」を真似た学校用の国史を編纂し、同郷の先輩に校閲をお願いしたこともありましたがうまくいかず、失意のまま帰郷、師範学校を卒業して小学校の教員になりました。
尚褧を知る人たちは、口を揃えて「温順」「口数が少ないおとなしい青年」と彼を評しましたが、その内面は激烈な保守主義が渦巻いていました。
その思想は幼い頃からの父の影響が大きかったようです。
師範学校での教育はその思想をより激化させます。卒業する頃には、頑迷な儒教的保守主義がすっかり仕上がっていました。
あまり明るくはしゃぐような性格ではなくどちらかというと陰性、親友と呼べる人間はなく、常日頃は中国南宋末期の軍人・政治家である文天祥(ぶん・てんしょう)を崇拝し、「官吏になるなら宮内省の役員になりたい」と話していた、というところから、なんとなくの人となりが想像できるかもしれません。
新聞のデマ記事に影響され犯行を決意
尚褧が板垣退助を「皇室の敵」と妄信するようになったのは、愛読していた「東京日日新聞」(現在の「毎日新聞」)の影響でした。
「東京日日新聞」は、旧幕臣の福地源一郎(ふくち・げんいちろう)の主宰する政府の御用紙で、自由民権派を日々中傷・攻撃していました。
事実に基づいた誤りの指摘ならまだしも、時に捏造記事を書いてでも運動を妨害しようとしていたことがわかっています。
「名実の弁」と題した社説が残っているのですが、これが典型例です。
「我々はとても残念な連絡を受けた。先ごろ、某政党の領袖たる某君が、東海道のある場所で演説している中で、天皇を指して『日本人民代理○○君』と言ったというのだ」(※筆者意訳)
某政党の領袖が板垣、○○とはムツヒト=明治天皇のことです。
この記事の恐ろしいところは、板垣が明治天皇を呼び捨てにしたことではなく、福地の書いたこの記事が、すべてデタラメだったことでした。
板垣を知る人々なら一笑に付すような記事でしたが、福地の狙いは彼ら有識者ではありません。「新聞に書かれていることはすべて本当のこと」と信じて疑わない、市井の「無識者」でした。そのなかのひとりに相原尚褧もいました。
判決文に尚褧の当時の心中が述べられています。
「最近、世情は自由民権運動が花盛りで、ときに暴力や過激な運動を行って皇室を蔑視する連中まで出てきた。(その活動を指導する)党のリーダーである板垣退助を殺せば党は解散し、将来の日本はもっと良くなるはずだと考えた」(※筆者意訳)
板垣ひとりを殺せば社会に広がった民論もともに滅ぶとの考えはあまりに幼稚と言わざるを得ませんが、1882年(明治15年)4月6日、実際に板垣に対し凶刃を振るうことになります。
そして彼は海上に消えた
逮捕された尚褧は、同年6月28日に岐阜県の裁判所で謀殺未遂の罪によって、無期徒刑の宣告を受け、北海道の網走監獄(※現在の網走刑務所)へと送られます。
事件から7年後の1889年(明治22年)2月11日、板垣に代表される自由民権運動の闘士たちの20年間の努力が実を結び、(欽定ではあるものの)憲法発布がなされると、無期徒刑で収監されていた尚褧も恩赦の恩典を浴することになりました。
網走監獄を出た尚褧は東京に立ち寄って板垣を訪ね、心からその不明を詫びます。
板垣も打ち解けて語り合い、出獄後の人生を誤らないように激励しています。
尚褧は北海道に永住して農場を経営したいと希望に燃えていました。
その準備のために、一度郷里の愛知県に帰って両親や兄弟に元気な顔を見せると、資金を懐に入れてふたたび郷里を離れ、四日市港から北海道行きの汽船に乗り込みます。
四日市港を出港したその汽船が遠州灘を通過した頃、尚褧は船内から忽然と姿を消してしまいました。
洋上で姿が見えなくなったということは海中に落ちたとしか考えられません。しかし、誰も尚褧が海に落ちるところを見たひとはいませんでした。
・尚褧を使って板垣を暗殺しようとした政府の誰かが、真相がバレることを恐れて口封じのために殺した
・尚褧自身が前非を悔いて投身自殺をした
・尚褧が持っていた農場の開設資金に目をつけた賊によって殺された
など、さまざまな噂が事件後に囁かれましたが、なにひとつとして根拠のある話はありませんでした。
この尚褧行方不明の謎は、今後も解明されることはないでしょう。
※参考資料:「東京日日新聞」/「公文別録・板垣退助遭害一件・明治十五年・第一巻・明治十五年」/「幕末明治風俗逸話事典」(紀田順一郎著)/「近世暗殺史」(村雨退二郎著)/「明治大正流血史談」(小松徹三著)
板垣退助の襲撃事件を伝える絵