政治ドットコムトピックス自由民主党結党物語 新聞報道に見る激動の1955年11月

自由民主党結党物語 新聞報道に見る激動の1955年11月

投稿日2020.12.9
最終更新日2020.12.09
この記事の監修者
山口和史
20年にわたって法律、税務、経営等の業界専門誌の編集長を歴任。
2020年から政治ドットコムの理念「政治をもっと身近に。」を実現するため、編集長に就任。
独自の視点と切り口で、政治にまつわる最新情報を発信する。

1955年(昭和30年)11月15日、自由民主党が結成されました。以降、長く続く自民党政権が「55年体制」と呼ばれるのは、この結成された年に由来します。
鳩山一郎が作ったにもかかわらず吉田茂に乗っ取られた自由党。そこから袂を分かって作られた日本民主党。この両党が再びひとつになる、それは決して簡単なことではありませんでした。
ここでは、当時の新聞報道を元に、結党までの流れを見てみます。

新党結成に向けての背景

初めて保守合同が新聞で報道されるのは、1955年(昭和30年)11月10日のこと。
朝日新聞では「保守新党実現へ 代行委員制で発足 十五日、結党の運び」と、一面トップで報じています。
代行委員制とは、「総裁」や「委員長」「書記長」といった、単独の代表を置いて党運営をするのではなく、鳩山一郎、緒方竹虎、三木武吉、松野鶴平の四氏で相談しながら決める方法を指しています。

前日の9日に行われた自由党と民主党との会談前まで、それぞれ民主党側は鳩山総裁、自由党側は緒方総裁の実現を目指して折衝したものの、これでは両者折り合わないと互いに気が付き、党首問題をしばらく棚上げにしよう、まずは合同が先決だとの結論に至ったための措置でした。
しかし、両者ともにこれで納得したわけではなく、自由党の吉田派はこの代行委員制に強く反対した上に、民主党側でも鳩山総裁の芽がなくなったと釈然としない空気が党内に流れました。

9日の段階で、新党の政策要綱は次の6点です。
①国民道義の確立と文教の刷新:特に大学制度の再検討
②政官界の刷新:選挙制度の改正と行員制度の改正
③経済自立の達成:通貨価値の安定と長期経済計画立案
④福祉国家の建設:健康保険制度の拡充
⑤平和外交の推進:ソ連への北方領土交渉
⑥独立体制の整備:憲法改正の実現による自衛軍の整備

11月10日、吉田派の強硬な反対姿勢が明確に

翌11月10日に行われた自由党と民主党との会談で、新党幹事長に岸信介が指名されます。当時、岸は民主党の幹事長を務めていました。その岸が、新党の幹事長に決まったことから、総務会長や政調会長は自由党から出ることになるだろうと、11月11日の報道では予想しています。
保守新党の党首問題についての議論も引き続き続いています。
11月10日の午後2時過ぎ、東京永田町の高級ホテルに集まった岸、三木、石井光次郎、大野伴睦の4人は、2時間にわたって協議しています。
それでも結論は出ず、「とりあえず解決は後日」「当面は代行委員制」と、議論が堂々巡りしていたことがわかります。

また、自由党内も一枚岩ではなく、ライバルである鳩山一郎が表舞台で活躍するのが気に入らないのか、反対勢力として存在感を示します。
「吉田派、解党に反対 自由党に分裂の危機も」(「朝日新聞」11月11日朝刊)
彼らは、代行委員制に強く反対しています。

自由党を解党するのは、実際に党首公選が実施されるまで延期するべきだというのが彼らの主張ですが、すでに総裁の緒方竹虎は代行委員制による新党結成に踏み切っているため、このままでは吉田派の新党不参加、自由党分裂もありうる情勢となっていました。

11月11日、代行委員制に真っ向から反対

11月11日、自由党内では朝から午後8時まで首脳部会議を開いて代行委員制による新党結成を巡って、党執行部と吉田派との間に激論が交わされています。
池田勇人や佐藤栄作ら、後に総理となる有力議員らが新党への参加を拒否する非常事態。さらに一部議員も佐藤らに同調しようとする動きも見られ、11月15日の新党結成に向けて不穏な空気が漂い始めます。
吉田派は「党首公選が行われるまで解党すべきではない」「結党前の準備会のまま国会に臨むべきだ」と主張。佐藤は「連立内閣も考えられるし、閣外協力もありうる」との考えも示されました。

また、池田からは「自由党から代行委員の数を1名増やす」「幹事長を自由党の人間にする」といった提案がされています。ギリギリの折衝の中で、少しでも自分たちを有利に、自分たちの権力を強化しようという思惑が見て取れます。
これらの意見に対して石井幹事長は「代行委員制が最善の策とは思わない」と吉田派に寄り添った上で、「まずは新党を結成しないと、国会で両党が激突をしてしまう危険性がある」と、保守合同を優先させようと必死になだめている様子が見られます。

11月12日、吉田派の反対も勢いが弱まる

11月12日、吉田派は終日協議を行っています。この会合の中で、林譲治、益谷秀次らが中心となり新党への参加を説得しました。その結果、吉田派の大半が新党に参加する見通しが立ち、「吉田派 大半参加せん 佐藤氏らは依然強硬」(「朝日新聞」11月13日朝刊)との見出しが新聞を飾りました。
池田勇人は吉田派の中堅議員に新党への参加を勧めた上で、池田自身は佐藤栄作と行動をともにすると上層部に伝えました。

12日の午後2時に自由党本部で行われた総務会が開かれます。依然、保守新党参加について党内の調整が行われているさなかではありましたが、党内は新党参加促進派が多数を占めるようになり、残った吉田派の一部も反対の態度は表明しなくなり、ようやく大勢が固まっていきました。

11月13日、吉田茂と佐藤栄作の不参加が決定

11月13日、午後2時半から行われた自由党の総務会。この場で新党参加を了承。吉田派も大多数が新党に参加することになりました。
しかし、吉田茂本人と腹心の佐藤栄作は新党には不参加となりました。
後日、11月15日に吉田茂が池田勇人らに送った私信が残っています。

林譲治様
池田勇人様
恵展

拝啓 過日来諸兄之御心労に敬意を表し小生の進退をも御一任致候得共
更に熟考 遂に初一念に立帰へり新党へは入らぬ事に覚悟仕候 諸君に種々御心労
相懸候段 誠に恐縮千万に候得共 何卒不悪御了承可被下候 頓首

十一月十五日

吉田茂

林老台
池田老台
侍史

直前の報道ですでに「吉田は不参加」とされていたにもかかわらず、自民党結成直前まで悩んでいたことがわかる貴重な資料です。

11月14日、両党解党/11月15日、新党結成

11月14日、抵抗していた吉田派の反対も落ち着き、保守新党の結成が見えてきました。
後に「自由民主党」と呼ばれることになる新党は、日本政党史上初めての単一保守政党となります。
当時、衆議院で298議員、参議院で115議員を擁する最大勢力となり、直前の社会党再統一が霞んでしまうほどのインパクトでした。

結局、最後まで新党参加に対して首を縦に振らなかった佐藤栄作が新聞記者にポツリと漏らした言葉が伝わっています。
「オレはガンコだ。しかしガンコの元祖みたいな吉田さんの薫陶を受けたんだから仕方がない」
自身の信条にのっとり、時勢に流されずに行動するその姿勢は後に評価され、およそ10年後の1964(昭和39年)年、佐藤は第61代内閣総理大臣に指名されます。
11月15日、自由民主党は正式に発足しました。

党名は直前まで「日本自由党」が優勢とされていましたが、14日夜の会談で自由民主党で着地しました。
ちなみに、保守新党結成が話題になった11月10日段階では、「日本保守党」「保守党」「日本国民党」が最有力とされていました。

結成された自民党は戦後最大の保守党として、この後、長期間に渡って政権を掌握していくことになります。

■参考資料
「朝日新聞」昭和30年11月10〜15日号