8月10日:高官から「最悪の状態」との言葉が発せられる
1945年(昭和20年)8月6日に広島に原子爆弾投下。3日後の8月9日には長崎にも原子爆弾が落とされ、さらには同日にソ連が日本に対して宣戦布告。もはや日本の敗戦は決定的となっていました。
そんななか、8月11日の新聞報道において、ついに公の高官から「最悪の状態」との言葉が発せられます。
8月11日付けの「朝日新聞」では、「一億、困苦を克服 国体を護持せん 下村情報局総裁談 選挙区は最悪の状態」という見出しとともに、陸軍大臣阿南惟幾による「死中活あるを信ず」との訓示も紹介しています。
この下村情報局総裁は、下村宏のこと。彼は玉音放送の際の内閣情報局総裁であり、ポツダム宣言受諾の実現に尽力したことでも知られています。
彼の口から「最悪の状態」との言葉が出た背景には、広島・長崎への原子爆弾の投下と中立であるはずだと日本政府が勝手に信用していたソ連の対日参戦の衝撃がありました。
下村は「国民挙げて克く暴虐なる爆撃に耐えつつ、義勇公に奉ずる精神をもって邁進しつつあることは●(解読不能)に感激に耐えざるところ」としながらも、「今や真に最悪の状態に立ち至ったことを認めざるを得ない。正しく国体を護持し、民族の名誉を保持せんとする最後の一線を守るため、政府は固より最善の努力をなしつつある」と語っています。
戦時下、情報は厳しく統制され、国民に対して士気を下げるような報道、発言は禁じられていました。
そのなかで、ついに高官からも弱音とも取れる発言が発せられるようになります。
また、あくまでも政府が目指しているのは「国体の護持」「民族の名誉の保持」であって、これらの発言の中に「戦争に勝つ」といった意味合いの言葉は見受けられません。
政府はもちろん、国民の間にも厭戦ムードはもちろん、「勝てるはずがない」という思いが広く共有されていたことが伺われます。
同時に、陸軍大臣の阿南惟幾は「断固、神州護持の聖戦を戦い抜かんのみ。たとえ草を食み、土をかじり、野に伏するとも断じて戦うところ死中自ら活あるを信ず」と、訓示を行っています。
もはや目的が、戦争に勝つことではなく、「聖戦を戦い抜く」ことに入れ替わってしまっています。
問題の核心に迫ることはせず、ただただ精神論に終止する。具体的な解決法を考えることはなく、我慢だけを強いる様子は、あれから75年経過した現在の日本にもそのまま見られる光景です。
8月11日に至って、ようやく「読売報知」で8月9日の長崎への原子爆弾投下が記事になっています。
とはいえ、内容は「目下調査中」としかありません。
当時のアメリカ大統領、トルーマン大統領には「(原子爆弾は)毒ガスに優る残虐 即時放棄せよ」と抗議していますが(「読売報知」8月11日付け)、そんな抗議が通るはずもなく、無視されています。
8月12日:終戦への地ならしが始まる
8月11〜12日あたりから、新聞報道において原子爆弾への対処法が記事内に見られるようになっていきます。
8月12日付けの「読売報知」で紹介された記事は「白下着で火傷防止 鉄筋建築に退避 新型爆弾の防衛策追加 横穴壕も有効」というものでした。
たしかに、なにも遮蔽物のない外にいるよりは、建物内にいたほうがマシかもしれません。
黒い衣服を身に着けているよりも、白い下着のほうが、多少は火傷が軽くなったかもしれません。
とはいえこれらは、後世の人間なら誰でもわかる「焼け石に水」。
当時、国民を鼓舞する役割も果たしていた新聞社において「落とされたら手のうちようはない」とは報道できなかったのでしょう。
原子爆弾投下から数日、一部報道において「原子爆弾恐れるに足らず」という趣旨の記事が掲載されています。
8月12日から、新聞社の社説でも「一切の希望的観測、一切の安易感は、この際一擲されねばならぬ」と語られるようになります。
広島、長崎から次第に情報が集まり、いかに甚大な被害が発生しているのかがわかってきたということでしょう。
新聞報道も、徐々に終戦に向けた地ならしを始めているように見える記事が散見されるようになります。
同8月12日付「読売報知」の中面、「莫直進前の眞姿ここに在り」に、このような文言が現れます。
「過去四年間、われらが一切を賭けて戦い抜いてきた大東亜戦争は、予期せざる新事実の頻発によってついに最後の一線に到達した」
「今後、いかなる事態が招来されようともいたずらに動ずることなくわが民族史上かつてなきこの雌伏の秋をひたぶるに克服し、もってわが国体を護持せねばならない」
一方で、同日8月12日付の「朝日新聞」では、「非国民的行為の一掃 明るい決戦生活へ 検事局起つ」「今こそ国民皆農」「配給は当てにすまい 各家庭の創意と工夫で」といった見出しが並び、「読売報知」との違いが浮き彫りになっています。
8月13日:初めて原子爆弾の文字が使われる
8月13日付の「朝日新聞」では、ソ連軍の満州への侵攻を一面の見出しにもってきています。
すでに樺太の北部はソ連の占領下にあり、この日の報道では現在の中華人民共和国、内モンゴル自治区のハイラル区まで侵攻され、この地で激戦を続けていると報じています。
この日、同日付の「読売報知」の中面で、初めて原子爆弾の文言が使われるようになります。
「天文学的な爆発力 原子破壊のエネルギーを利用 人類の滅亡招く暴君」との見出しのもと、原子爆弾の構造やメカニズムについて解説しています。
しかし、熱波や爆風についての解説はありますが、放射能汚染についての理解はまだされていないようで、深く言及はされていません。
この「原子爆弾」との名称は、アメリカ側のアナウンスによるものを利用しています。そのため、本当に原子爆弾なのか? という疑問も浮かんでいたようで、同じ紙面に「果たして原子爆弾か 覇望深む米の研究 廣島の投下弾には若干の疑問」として、理学博士の矢崎為一氏の見解が寄せられています。
矢崎博士は少ない情報の中から分析を行い「厳密な意味での原子爆弾ではないのではないか」「これまでも新しい爆弾が使われるたびに原子爆弾ではと言われてきたが、今回も同様ではないか」と疑義を呈しています。
しかし、落とされた爆弾はまさに「原子爆弾」でした。
終戦まであと2日。