激動の時代を生きた「憲政の神様」
生涯で25回にもわたって衆議院議員総選挙に当選した議員がいます。「憲政の神様」「議会政治の父」との異名を持つ尾崎行雄は、1890年の第1回から第25回まで、衆議院議員総選挙を連続当選しています。
1858年(安政5年)に生まれた尾崎は、明治から昭和の戦後時代まで、政界で大きな影響力を及ぼしました。
慶應義塾に学んだ尾崎は、報知新聞の論説委員や東京府の府会議員などを務めた後、明治23年(1890年)の第1回衆議院議員総選挙に出馬し当選。以後、63年間にわたって連続25回の当選記録を樹立します。地元の伊勢では、投票用紙に「尾崎行雄」としか書いたことがない有権者が2代・3代にわたって存在したとの逸話も残されています。
明治時代から昭和の第二次世界大戦後まで、激動の時代を迎えた日本の舵取りを行っていきますが、昭和28年(1953年)のバカヤロー解散による総選挙(第26回衆議院議員総選挙)でついに落選。政界引退を決意します。このときの年齢は実に94歳。94歳まで国会議員を務めたのは、もちろん日本初。連続当選25回、議員勤続63年と並んで日本唯一の記録です。
政界引退がこたえたのか、尾崎は翌昭和29年(1954年)に直腸がんによる栄養障害と老衰のため亡くなりました。
昭和の時代、衆議院議長や数々の大臣・長官を歴任した、原健三郎は、その生涯で20回にわたって当選を果たしました。
1931年に大学卒業後、アメリカ留学を果たしたのち、帰国後、講談社に入社。編集者を務めた原は、1946年4月の第22回衆議院議員総選挙において兵庫1区から立候補し、初当選しています。
当選当時は日本進歩党に所属していましたが、民主党を経て、幣原喜重郎、田中角栄らと民主自由党へ参加。以後、保守合同にともなって自由民主党に所属することになります。
自民党内では広報委員長、国民運動本部長などを務めたほか、ロッキード事件が発覚した際には、ロッキード問題調査特別委員長にも任じられています。
1996年には議員生活50周年を迎え、尾崎行雄、三木武夫に続いて3人目の名誉議員称号を取得しますが、前の2人のように国会内に胸像を建てる件については財政難を理由に実現しませんでした。
以後、2000年の衆議院解散まで議員を続け、93歳で引退します。これは尾崎行雄の94歳に次ぐ歴代2位の高齢です。
20回当選の原に並ぶのが、第71〜73代の総理大臣を務め、2019年に101歳で亡くなった中曽根康弘です。
彼もまた、1947年から2003年まで連続20回の当選記録保持者です。
内務省を退官後、第23回衆議院議員総選挙に当選すると、自民党内でメキメキと頭角を現し、科学技術庁長官をはじめとする重要ポストを歴任します。
1982年(昭和57年)から1987年(昭和62年)にかけて、総理大臣に任じられると、国鉄や電電公社、専売公社、日本航空などを民営化。アメリカのロナルド・レーガン大統領(当時)とも信頼関係を構築し、貿易摩擦等によって悪化していた日米関係を改善させました。
総理大臣退陣後は、リクルート事件への関与が発覚し、一時自民党を離党するなどありましたが、のちに復党。厳然たる影響力を政界に残し続けるも、2003年(平成15年)に当時の小泉純一郎首相から引退を進言され、政界を退き、2019年(令和元年)にその生涯を閉じています。