政治ドットコムトピックス歴代首相在任期間に見る – 長寿政権と短命政権

歴代首相在任期間に見る – 長寿政権と短命政権

投稿日2020.2.19
最終更新日2020.02.20

令和元年11月20日、安倍晋三首相の通算首相在任期間が2,887日となり、それまでの最長記録だった桂太郎氏の通算期間を超え、歴代最長となりました。
現在も記録更新の真っ最中ですが、過去の在任期間記録はどうなっていたのか、見てみましょう。

歴代首相在任期間 長期合計TOP10

歴代首相在任期間 短期TOP10

歴代最長となった安倍氏の歩み

第98代内閣総理大臣、安倍晋三氏がはじめて首相の座についたのは平成18年9月26日でした。ところが、いまの安定的なあ政権運営とは裏腹に、その船出は不安定なものでした。

小泉純一郎氏のあとを受けて第90代内閣総理大臣に就任するも、郵政造反組の復党問題や年金問題、立て続けに起こった閣僚の不祥事などが重なり、平成19年7月に行われた第21回参議院議員通常選挙で自民党は惨敗。自らの体調不良と敗退の責任を負って、わずか1年で退任しています。
再び首相の座に返り咲いたのは平成24年12月26日。その間、民主党が政権を担当するも、前年に起こった東日本大震災への対応や、震災に伴う原発事故の処理のずさんさなどから民主党は国民の支持を失い、平成24年12月16日に行われた第46回衆議院議員総選挙で民主党は敗退(改選前の230議席からほぼ4分の1の57議席へ)。自民党が政権与党に復帰しています。

同じ年の12月26日、安倍氏は第96代内閣総理大臣に選らばれ、第2次安倍内閣が発足します。その後、内閣改造を重ねながら長期にわたって政権運営に成功。令和元年11月20日、首相通算在職日数が2,887日となり、それまでの桂太郎氏(2,886日)抜き歴代総理最長となりました。

上位は長州出身勢が独占

歴代総理の通算在任期間の上位には、1位から4位まで、山口県出身の総理がならびます。

安倍晋三氏に続くのは、日露戦争の際の首相である桂太郎氏(2,886日)、沖縄返還をなし遂げ、日本人唯一のノーベル平和賞を受賞した佐藤榮作氏(2,798日)、初代総理大臣を務めた明治の元勲、伊藤博文氏(2,720日)と、そうそうたるメンツが揃い踏みです。

さらには、10位に岸信介氏(1,241日)もランクインするなど、山口県出身総理の安定感は抜群です。

ちなみに、元長州藩である山口県出身の総理大臣はこれまでに8名います。そのうちの5名が長期にわたって政権運営をしてきたことになります。

なかでも佐藤氏は、通算の首相在任期間こそ安倍氏に抜かれたものの、連続での在任期間は7年8ヵ月(昭和39年11月9日〜昭和47年7月7日)と、こちらに関してはいまでもトップ。しかしこの記録も、安倍氏が令和3年9月30日の任期満了まで務め上げた場合、首位を明け渡すことになります。

 

短命政権となった理由はさまざま

一方で、在任期間の短かった歴代総理についても見てみましょう。
全98代のうち、もっとも短命に終わったのは、第43代総理大臣の東久邇宮稔彦王氏。就任からわずか54日で退任しています(昭和20年8月17日〜昭和20年10月9日)。
この在任期間からお分かりのとおり、第二次世界大戦直後の大混乱のなか、終戦処理内閣として総理大臣に推されました。日本の憲政史上初の皇族内閣でもあります。
戦後、混乱しきっていた国内秩序の維持と連合国軍の日本本土進駐の受け入れ準備を任務とし、戦後処理を進めていくものの、連合国軍最高司令官総司令部との折衝に苦しみ、最終的には総司令部の信任を失って、東久邇宮稔内閣は総辞職したと言われています。

ちなみに、この東久邇宮稔氏は、首相退任後も数奇な人生を送ったことでも知られています。

退任後は昭和21年に公職を追放され、さらに翌年には皇族も離れています。その後、さまざまな事業に手を出すも失敗続き。失敗の一因は、戦後の闇市で商売を始めるも、そのマジメで潔癖な人柄が災いし、闇市であるにも関わらず、決して定価以上の値段では品物を売らなかったから、などと伝わっています。
その後は、新興宗教「ひがしくに教」の教祖に祀り上げられるなど、波乱万丈の人生を送り、平成2年1月20日に亡くなります。享年なんと102。これは総理経験者で最長寿です。歴代最短の在任期間となった首相は、歴代最長の人生を送って天国へと旅立ちました。

次に短命に終わったのは、第80代総理大臣に就任した羽田孜内閣です。こちらも64日の短命政権となりました。
羽田内閣の成立は平成6年4月28日。新生党、公明党、日本新党、民社党などを与党とする連立内閣としてのスタートを目論むも、船出する直前に日本社会党が政権から離脱。いきなり不安定なスタートを余儀なくされます。
それでも平成6年度予算をなんとか成立させるも、当時の法務大臣だった永野重門氏(新生党)による「南京大虐殺はでっちあげ」との発言が国内外で大問題となり、中国、韓国から非難が殺到。政権運営に苦しむ一因となりました。

そして迎えた6月、自民党による内閣不信任案が衆議院で可決される見込みとなったため、6月25日に総辞職。通算首相在任期間では憲政史上2番目、現行の憲法下ではもっとも短い内閣に終わりました。

第55代総理大臣の石橋湛山氏は、健康上の理由で65日で退任しています。
昭和31年12月20日に首相に指名された石橋氏は、「一千億減税・一千億施策」「中共貿易拡大」などの積極政策を掲げて全国遊説へと向かいます。
各地で好評をもって迎えられたのですが、そのスローガンを具体的に実行するための政策案をつくる前に、昭和32年1月8日に過労で倒れてしまいます。
急場は岸信介外相(当時)を臨時の首相代理に指名してしのぎますが、2月22日に至っても「なお2ヵ月の療養が必要」との診断がくだされたことを受けて、翌23日に総辞職しています。その潔い決断は、当時の野党からも好意的に受け入れられたといいます。

3番目に短い69日で退任せざるを得なかった第75代総理大臣の宇野宗佑氏は、石橋氏と比していささか艶っぽい理由で首相の座を下りています。
平成元年6月3日に成立した宇野内閣は、昭和63年に表面化した「リクルート事件」による国民の政治不信、自民党離れという逆境の中、船出しました。
ところが首相就任から3日後の6月6日、「サンデー毎日」が宇野氏の女性スキャンダルをスクープ。さらなる批判にさらされます。
宇野内閣はこれらの混乱の鎮静をはかるヒマもなく、7月の参議院議員選挙を迎えます。結果、自民党は惨敗。参議院の与野党の勢力分布は逆転してしまいます。
これらの責任を取る形で、8月に宇野氏は辞任。歴代4位となる短命内閣となりました。