社会主義の台頭に危機感を覚える「生産党」
大正14年、20歳以上のすべての男子に選挙権を与える普通選挙法が成立すると、社会民主主義を掲げる無産政党が集合離散を繰り返します。
数年を掛けて結成、分裂、合流を繰り返した後、昭和7年7月24日に社会民衆党と全国労農大衆党が合併し社会大衆党が誕生、やっとのことで無産政党はひとつになります。
その半年前の昭和7年1月、栃木県塩谷郡阿久津村(現在の高根沢町)で起こった阿久津騒擾事件は、この全国労農大衆党(以下大衆党)に対して右翼の大日本生産党(以下生産党)が行った挑発に端を発します。
大衆党の党首・麻生久は、大正6年に東大法学部を卒業すると大正デモクラシーの流れに乗って社会運動に取り組むようになります。
足尾銅山争議などの鉱山労働運動で名を挙げると、第1回、第2回の普通選挙で立候補。落選したものの、阿久津村を地盤として票を伸ばしていました。
この流れに危機感を持った生産党が、大衆党の地盤を潰しにかかったのが事件の概要です。
栃木県では麻生の知名度が高まるにつれ勢力を拡大。足尾銅山争議の闘士だった石山寅吉は栃木県会議員に。宇都宮市を拠点に活動していた弁護士の大貫大八(※尊属殺法定刑違憲事件で知られる)は宇都宮市会議員に当選するなど、影響力は日増しに強まっていきます。
この動きに危機感を覚えた生産党は、昭和6年9月頃から東京などから数百人のゴロツキを集めて黒いシャツを着せて宇都宮市内を監視させます(通称:黒シャツ隊)。
労働争議や小作争議(※地主に対して小作料の減免などを交渉すること)の際には、武装して資本家・地主側に付いて暴力を振るう、さらには大衆党の事務所や党員の自宅を襲撃するなどやりたい放題暴力行為を行っていました。
たちが悪いのは、これらの行為を警察も見て見ぬ振りを続けていたこと。警察は生産党に抱き込まれていたのです。
警察も抱き込んで行われた嫌がらせ
阿久津村では通年、1反あたり平均5俵前後の収穫がありました。
そのうち小作料は1反あたり平均3俵8枡でしたが、昭和6年度は凶作のために1反あたりの収穫が平均4俵まで落ち込みました。
そこで、小作人たちは地主に小作料の減免を要求します。
すると、地主は生産党に応援を依頼。阿久津村の宝積寺に事務所を構え、40名の黒シャツ隊が日本刀や棍棒を持って駐屯し、数名ずつのチームに分かれ、小作人たちの家に押しかけて暴行を繰り返しました。
昭和7年1月5日、全国農民組合栃木県連合会の書記長を務めていた大屋政夫は、地主のひとりである野沢茂堯宅に減免の交渉に向かいます。
この日も野沢は生産党に連絡すると、10数名の黒シャツ隊が野沢宅に駆けつけ大屋を荒縄で縛って拉致すると、生産党の事務所に監禁します。
翌6日、知らせを聞いた大衆党の面々は大屋の救援に向かいますが、武器を持った80名以上の黒シャツ隊に追い返されてしまいます。
大衆党が警察に抗議すると、黒シャツ隊は大屋を警察に引き渡しますが、警察は大屋を釈放せずにそのまま留置してしまいます。
1月7日、大衆党栃木県連の幹部たちは、宇都宮市内の旅館で会議を開いていました。翌2月には衆議院の解散が必至と見られ、総選挙対策を行っていたのです。
そこに阿久津村での騒動が情報として入ってきます。
事態はさらに悪化しており、農民組合事務所も生産党に占拠されていました。
この場で前述の弁護士・大貫大八らが討議した結果、1月8日の午後10時〜12時の間に県内から武器を携行した200名の闘士を集め、夜陰に乗じて部隊を編成、農民組合事務所を奪還することを決議します。
あくまで目的は農民組合事務所の奪還。
こちらからは手出しをしないことを了解し、ことは進みます。
1月9日の夜明け前、農民組合事務所までやってくると、隊長の号令一下、事務所内に乱入しますが、生産党はひとりもいません。
抜いた刀のやり場に困った彼らは、さらに前進して地主である野沢方を襲撃してしまいます。
その結果、この野沢方付近を警戒していた生産党の黒シャツ隊と出会い、乱闘の末に生産党員4名を殺害、9名に重傷を負わせる大事件へと発展します。
幹部会議で決まった「こちらからは手出しをしない」という決議に反する行動でした。
逮捕された人数は「300名×8名」
検挙された大衆党関係者は300名に達しました。
幹部も軒並み逮捕され、11名が殺人および殺人未遂、騒動前日の決議に加わった大貫らは騒擾の首魁として取り調べを受けることになりました。
ちなみに対する生産党の逮捕者はわずか8名。暴力行為等取締法で申し訳程度、起訴されています。
昭和7年9月5日から始まった宇都宮地裁での公判では、後の日本社会党委員長・河上丈太郎、日本労農党書記長・三輪寿壮が主任弁護人を務めて行われました。
結果、殺人で起訴された2人は懲役15年、騒擾の首魁とされた大貫らは懲役3年の判決を受け、それぞれ服役しています。
後年、大貫は弁護士として活動を続けるかたわら社会党から出馬し衆議院議員を務めています。
殺人で服役したAは終戦時に出獄したものの、Bは小菅刑務所で獄死。
生産党に危機感を抱かせるきっかけとなった麻生はこの事件で栃木県内の選挙地盤が崩壊し、以降は東京から立候補するようになります(昭和11年の総選挙で当選)。
しかし、事件以降は国家社会主義に傾倒し、太平洋戦争中には近衛文麿の新体制運動に協力するようになります。
※参考資料:「続・史談裁判」(森長英三郎著)