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政治ドットコムトピックス警察署の留置所が「豚箱」と呼ばれるのはなぜ?

警察署の留置所が「豚箱」と呼ばれるのはなぜ?

投稿日2020.12.7
最終更新日2020.12.08

大正時代、府議会・市議会を巻き込んだ大規模な疑獄事件が起こりました。この事件の取り調べは過酷を極め、多くの冤罪被害者を出しています。
その事件で容疑者となり取り調べを受けた市会議員・江羅直三郎が発した言葉が、後年意外な意味に転化していきます。
なぜ警察署の留置所を「豚箱」と呼ぶのか。
きっかけとなった「京都豚箱事件」についてお届けします。

狭い箱に被告人を閉じ込め自白を強要

現在、「豚箱」という言葉は警察署の留置場を指す俗称となっています。
広辞苑などの辞書においても同様の内容です。
留置場が豚箱と呼ばれるきっかけになった事件があります。大正7〜9年に起こった京都を舞台にした汚職事件です。
事件の被告人のひとり、当時、京都府会議員を務めていた江羅直三郎が、法廷で「呼び出しを受けて調べを待つ間、三尺程(約90センチ)の狭苦しい『豚箱』に入れられて、私一人、思案にくれておりました」と語ったことがこの言葉の始めとなりました。

もともとこの箱は、既決囚(※有罪の判決が確定し、刑の執行を受けている囚人)を収監するとき、着替えや所持品検査などで順番を待つ人間を入れておく箱でした。
しかしやがて、検事が被告人を調べるときに、一度に何名も呼び出す際、他の調べが終わるまで待たせるために入れるようになります。
さらにはその後、自白しない被告人を閉じ込めるために使われるようになり、別の事件のある被告人は、一日に数十回入れられたり、長いときには8時間にわたって閉じ込められたこともあったと伝えられています。

試しに当時の新聞記者がこの箱に入ってみた際の報告が記事になっています。
「幅二尺(約60センチ)、上に空気抜けがあり、戸は格子で日本紙を張ってあった。試みに腰掛けてみたが、五尺三寸(約160センチ)、二十余貫(約70キロ)の記者も、入れぬことはないが、固より窮屈は窮屈、腰を掛ければ視線は戸までの感覚わずかに一尺、長時間入れられたら精神上、肉体状の苦痛は想像以上だろう」(「法律新聞」1621号)
この箱が、冒頭の江羅の言葉をきっかけに、警察署の留置場を意味するように変わっていきました。
いかに当時の留置所内でこの「豚箱」が日常的に使われていたかが伺われます。

違法捜査を行った検事は国会議員に

この汚職事件、市議会関係では京都市長以下34名、府議会関係では当時の府知事、警察部長、刑事課長など40名の合わせて70名(双方に関係したものが4名)が関わった大事件でした。
当時、市議会では市長選挙での買収事件、府議会では贈収賄や違法な建物の特売事件などが横行しており、腐敗堕落していました。
しかし、この豚箱事件での本命とされた議員買収事件では、「豚箱」を駆使して行われたことに代表される強引な捜査によって、無理な自白が強要された冤罪事件として後世に名を残すことになります。

この事件では自白を強いる方法として、次のようなことが行われました。
・「自白しなければ父親を勾引する」「未決勾引に期限はない。2年でも3年でも入れておく」「(家族が病人の被告人に)子が死んでも親が死んでも白状しなければ知らせない」などと脅す
・深夜まで眠らせずに取り調べを行う。検事は「深夜2時が陥落時間」と言っていた
・重病の被告人の枕元に机を置いて取調べする
・検事が机の上に両足を置き、被告人の鼻先に足の裏を見せながら、顔にタバコの煙を吹き付ける
など、違法行為が公然と行われていました。
残された資料では、この事件の取り締まりで2名が発狂したとのこと。いかに過酷な取り調べだったかがわかります。

裁判で、弁護側は無茶なやり方で作られた被告人たちの自白調書を覆すため、取り調べを行った検事たちの人権蹂躙を追求します。
日本弁護士協会(現:日本弁護士連合会)も全面的にバックアップ。事件調査のための特別委員会を組織し、現地への出張調査を行います。その調査結果は報告書として公表され、当時の司法大臣だった原敬に渡り、責任者の処分を要求します。

報道も加熱するなか、海外にも事件が知られるようになると、英字新聞「クロニクル紙」などからも批判を浴び、やがて貴族院・衆議院でも取り上げられる大騒動へと発展します。
原敬司法大臣も責任追及せざるを得ない状況となり、第一審判決前に検事長は辞職。検事正は左遷。事件を手掛けた4人の検事は譴責処分を受けました。

これらの処分に対し、検事長は恩給も辞退し潔く退職しましたが、事件を手掛けた検事Aは検事こそ辞めたものの大審院検事に昇任、B、Cは他地域の検次席に栄進するなど、いい加減な譴責処分であることが後に判明しています。

判決は大正9年11月30日に出されましたが、本命となったこの事件では全員無罪となっています。
これほど検事による人権蹂躙が騒がれた事件だったにもかかわらず、当時の司法次官鈴木喜三郎は、検事控訴しようとしていたというから驚きです。

ちなみに翌年、大審院検事に昇任していたAは退職して弁護士となり、その後、昭和3年から連続8回にわたって衆議院議員に当選。
戦後は国務大臣、逓信大臣、厚生大臣、建設大臣を歴任しています。
自らの生涯を綴った自伝でも、最後までこの事件で人権蹂躙はなかったと主張。昭和48年に98歳でその生涯を閉じています。

※参考資料:「続・史談裁判」(森長英三郎著)/「法律新聞 1621号」

この記事の監修者
政治ドットコム 編集部
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