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政治ドットコムトピックス酒に酔って妻を斬り殺した総理大臣 黒田清隆伝

酒に酔って妻を斬り殺した総理大臣 黒田清隆伝

投稿日2020.12.7
最終更新日2020.12.08

第2代内閣総理大臣を務めた黒田清隆には粗暴なイメージが付きまとっています。
酒を飲むと暴れる、酔って大砲を誤射して死者を出す、ときには酔いにまかせて暴れていたところを柔道家としても知られる木戸孝允に取り押さえられ、簀巻きにされて自宅に送り返されたなど、いわゆる「酒乱」の姿です。
そんな黒田でしたが、北海道の開拓や条約改正に並々ならぬ意欲を燃やした政治家でもありました。彼の生涯をご紹介します。

豪快・粗暴とされる黒田の意外な趣味

伊藤博文の跡を受けて、第2代内閣総理大臣を務めた黒田清隆。彼の肖像画を見ると、太く濃い眉毛、がっしりとしたアゴ、薩摩人らしい眼光鋭いまなざし、口元に蓄えた硬そうなひげと、いかにも豪傑といったイメージです。
現代に伝わる逸話でも、シラフのときでも豪快奔放、酒を飲めば暴れまわる酒乱、1878年(明治11年)に妻の清(せい)が亡くなると「浮気に対する小言を続けた夫人に怒った黒田が、酒に酔って斬り殺した(※殴り殺した、蹴り殺したなど諸説あり)」という真偽不明な噂がまことしやかに囁かれるほどで、これまた写真のイメージとぴったりです。
そんな明治時代に蘇った戦国武将のような名前とイメージを持つ黒田ですが、彼の趣味は意外にも養鶏。
友人知人が事故や病気などで体を壊すと、彼が飼っていた自慢のニワトリが産んだ玉子を抱えてせっせとお見舞いに行く、そんな心優しい一面も持ち合わせていました。

鹿児島県下の貧しい武士の家に生まれた黒田は、幼い頃から西郷隆盛の薫陶を受けて育ちます。
長じては薩長連合を成立させる際、薩摩側の使者に選ばれるなど、周囲の信任を集め重用されていきました。一連の活動の中で長州藩士を中心に多くの志士と知り合うことになり、江戸末期の動乱時にあたって「薩摩に黒田あり」と、その名を広めていくことになります。

やがて勃発した戊辰戦争では、敵将であった榎本武揚の見識に惚れ込み、その助命嘆願に走り回ります。
そんな黒田の姿を見た西郷は、むやみに人を殺さない薩摩の伝統が黒田に息づいていることを喜んでいたと伝えられています。
命を助けられた榎本は、幕臣でありながら明治維新後は政府の高官に取り立てられ、後年、北海道干拓に力を入れる黒田の右腕として辣腕を振るうと同時に、黒田の主張を受けて1875年(明治8年)にロシアと交わされた樺太千島交換条約でも、交渉役としてその手腕を大いに発揮することになります。

多額な予算を投入した北海道干拓事業

黒田清隆といえば、北海道の開拓に力を注いだことが広く知られています。
明治元年、黒田は軍職を離れ、開拓事業へと注力していきます。
それまで師と仰いでいた西郷の元を離れ、維新のもうひとりの立役者である大久保利通の指導の下、新たな役割を模索していくなかでの決断でした。

明治維新後、北海道の開拓は政府にとって急務でした。
失業した士族の食い扶持を作らなければならない。ロシアの侵攻に備えなければならない。そして何より、欧米列強に対抗するため富国強兵を志さなければならない。
これらの課題を抱える明治政府にとって、石炭や木材、硫黄などの天然資源が豊富に眠る北海道の開拓は、日本の近代化にとって欠かせないと考えるようになります。黒田にとってもやりがいを感じる一大事業でした。

明治3年5月、北海道開拓次官に就任した黒田は、10月に樺太の実地調査から戻ってくると、「ロシアから北方を守るためには、樺太を放棄して北海道の開拓に専念する以外に方策がない」「北海道の開拓には外国人を招聘し、欧米方式で行うのが望ましい」との意見書を政府に提出します。
この献策を政府は採用し、明治4年8月には当時の金額で総額1千万円という巨額の予算を、北海道の開拓使に投入する「10ヵ年計画」が決定します。
当時の1円は庶民にとって現在の2万円ほどの価値があるという説があります。
この説に当てはめるならば、現在の金額で2000億円というとてつもない額を政府から与えられたことになります。

一躍、北海道開拓事業の全権を掌握した黒田は、郷里の鹿児島から配下たちを集め、「北海道開拓使の主力が薩摩人」という特異な状況を生み出します。
全力で事にあたった黒田たちでしたが、厳しい自然環境にも足を引っ張られ、開拓はなかなか進捗しません。
莫大な予算を投入しているにも関わらず、事業計画は早くも2年目にして大赤字。
満を持して招聘した外国人顧問や技術者たちとの間でも摩擦が絶えず、明るい兆しは見えません。
そんななか、明治10年には西南戦争が起こり、父と仰いだ西郷が死去。
翌明治11年には妻の清、さらには師事していた大久保も亡くなるなど、黒田にとって苦しい時期が続きます。
さらに、西南戦争が引き起こしたインフレによって明治政府は財政危機に陥り、北海道の開拓事業を支えていた積極財政の方針が転換されるのは時間の問題となりました。

後に「明治14年の政変」と呼ばれる政治事件が起こった背景には、このような事情がありました。
この政変では、伊藤博文一派と対立した大隈重信が政府を追われているのですが、そのきっかけになったのが、黒田が大いに関与した「開拓使官有物払下げ事件」でした。

政治的な失脚に追い込んだ一大スクープ

政府の開拓事業10ヵ年計画の満期が近くなった1881年(明治14年)、政府内で開拓使の廃止方針が固まりました。
この方針を受けた黒田は、開拓事業を継承させるために、部下たちを退職させて新たに起業し、開拓使が持っていた官有の施設・設備をその企業に安値で払い下げることを決定します。
対象となった施設・設備は、船舶や倉庫、農園、炭鉱、ビール・砂糖工場などで、10年の間に約1400万円もの大金を投じたこれらの施設を、わずか39万円(しかも無利息30年賦)で払下げるという破格なもの。
これを「東京横浜毎日新聞」と「郵便報知新聞」が一大スクープとして報道したために大騒動へと発展します。
黒田はこれを「正当な行動だ」と強弁するのですが、世論は収まりません。
さらには当時、伊藤博文政権下のもと会計担当参議を務めていた大隈重信が批判を行うと、これに伊藤が激怒。大隈一派は追放されることになります。
下野した大隈は尾崎行雄、犬養毅らと翌年に立憲改進党を結成。10年後の国会開設を目指して活動をしていくことになります。

この一大スキャンダルは黒田の政治生命に大打撃を与えました。
影響力は激減し、その後もいくつか大臣などを務めてはいますが、実質的には失脚同然の生活を送っていた黒田でしたが、数年後にしぶとく復活することになります。
政変以降、伊藤ら政府主流派に対する反発は日増しに強まっていきました。
一気にその不満が噴出したのは、伊藤政権下で外務大臣を務めていた井上馨の「条約改正問題」でした。
幕末に列国と締結した不平等条約の改正は、明治政府の最重要課題のひとつです。
明治11年に関税自主権を回復するなど、一部改善の動きは見られましたが、井上外相の時期、彼が取った極端な欧化政策と鹿鳴館外交に強い非難が殺到します。
やがて政府内での対立にまで発展し、やがて「打倒伊藤」の空気が充満していきます。

その反伊藤の旗頭に担ぎ出されたのが黒田でした。
長州一派に対抗できる唯一の政治勢力といえば、薩摩派。
その薩摩出身者の指導者を当時探すとなれば、大久保も西郷もいない当時、黒田をおいて他にありませんでした。
明治21年4月、退陣した伊藤のあとを受けて、黒田が第2代内閣総理大臣に就任した背景には、このような事情がありました。

黒田内閣が誕生すると、外務大臣として大隈重信を招き、先年に挫折した不平等条約改正に邁進します。
大隈を中心にまとめられた改正案は井上案を改善したものでしたが、「外国人が被告の場合、大審院に過半数の外国人裁判官を任用する条項」が残っていました。
これが世論の大反対を招くことになり、たちまち黒田と大隈は批判にさらされます。
それでも黒田と大隈はひるむことなく対抗し、伊藤や井上が説得しても、明治天皇が調停に入ろうとしても、薩摩派の松方正義、西郷従道らが助言をしても、黒田は一切耳を貸しません。
頑固一徹、頑なに中央突破を図ろうとする黒田でしたが、その緊張が頂点に達した明治22年10月18日、テロリストが投げた爆弾が大隈の右足をふっとばし、その爆発とともに条約改正も吹き飛んでしまいます。

首相を辞任した黒田はその後、枢密顧問官や枢密院議長などを務めますが、目立った活躍はありません。
大久保利通の死後は(首相にこそなれ)政治的には不遇だった黒田。
そのストレスや鬱屈が、彼を酒へと導いたのかもしれません。

大隈がテロに見舞われた際、黒田が漏らしたという言葉が伝わっています。
「大隈どん、貴君の片足を失ったのは、私の片足を失ったより残念じゃ」
失脚後、時代の流れによって再び脚光を浴びる舞台へと舞い戻った黒田が、条約改正に並々ならぬ意欲を燃やしていた証と言える言葉のように響きます。

※参考資料:増補新板「歴代首相物語」御厨貴編(新書館刊)

この記事の監修者
政治ドットコム 編集部
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