約半世紀にわたる改革運動も実を結ばず
日本に「東京」が誕生したのは1868年(明治元年)7月17日のことです。この日、それまでの江戸を東京とする詔が出され、東京府が設置されました。
まもなく東京府庁も開かれ、江戸町奉行所の業務が引き継がれます。
東京府は従来の江戸の範囲を整理し、市街地と村落地に区分けしました。
1869年(明治2年)3月、それまでの982町を1から50までの五十区に、村落地だった198村を1番組から5番組までの五区に再編します。
続いて1871年(明治4年)7月の廃藩置県によって、新たに府と県からなる制度が定められると、翌1872年(明治5年)にかけて品川県、浦和県、長浜県、小菅県からそれぞれ荏原郡、多摩郡、豊島郡、足立郡、葛飾郡の一部の移管を受けます。これによって、東京府の面積は大幅に広がり、現在の東京大都市地域の範囲が定まりました。
これら以外にも明治政府は日本の近代化に向けてさまざまな施策を打っていきますが、あまりに急激な変化や従来の慣習を無視した過激な制度変更に反発を抱いた市民や、不平士族たちは政府への不満を募らせ、一部は暴徒化、一部は自由民権運動へと向かいます。その結果、世情は次第に混迷していきます。
政局を安定させるために明治政府は1878年(明治11年)7月、初めての統一的な地方制度を整えます。
郡区町村編制法と呼ばれるもので、府県の下に従来の郡制を使った「郡」を置き、その郡内で住民の自治活動を伴った町村を認めるものでした。
またこれとは別に、府県の下に新たに「区」も定めました。
区が設置されるのは、東京、京都、大阪の3府と、開港した横浜、神戸、函館、長崎、新潟の5港のほか、城下町など人が多く集まった場所とされました。
東京府では1878年(明治11年)11月に15区と6郡が置かれます。
1888年(明治21年)になると新たに市制町村制が公布され、それまでの区は新たに市とすることが定められました。
区から市への移行にあたって、東京(15区)、京都(2区)、大阪(4区)については、そのまま移行するのは実情に合わないとして、紆余曲折の議論の末、1889年(明治22年)3月に三府の特例法を定めます。
それぞれの府の区をひとつの市に移行するが、市長は置かずに府知事が市長を兼ね、従来の自治区は存続させるというものでした。
こうした同年5月に東京府15区をひとつの市とする「東京市」が誕生します。
しかし、東京市の実態は東京府が抑えており、東京市は名ばかりのものでした。
初めて東京市に「都制度案」が持ち上がったのは1896年(明治29年)のことです。
東京府は廃止し、東京市域に「都」を設ける。東京府の地域で都に入らない場所には「武蔵県」を新設し対応するというものでした。
都には官選の長官を置き、公選の議会の権限を広げるなどの案も含まれていましたが、官治集権的で自治制度の趣旨に反するとして撤回されました。
その後も、東京市を独立させて、それ以外の東京府の地域を「千代田県」とする「千代田県設置法律案」のほか、①東京市に関する法律案、②「東京市制」案、③「東京都制」案の3つが繰り返し議論されますが、すべて否決または未決に終わります。
上記①〜③の共通点は、府と国による東京市政への二重監督の撤廃でした。これらの議論は世紀をまたいだ1911年(明治44年)まで続きますが、政府は「特別市制案を提出する予定はない」と却下。以降、議論は影を潜めます。
戦争遂行の美名のもと、突如生まれた「東京都」
大正時代にも細かい制度の改正など続けられましたが、大きな変化が訪れるのは1932年(昭和7年)のことでした。
この年、東京市は隣接する郡も合併して35区からなる大都市を形成します。
拡大した東京市の管理地域は明治26年時の東京府の範囲に相当し、人口では東京府の92%を占めることになりました。
これによって、東京府の行政も実質的に東京市域に向けて行われることになり、東京市の行政と東京府の行政とが併存する二重構造が生じ、行政の煩雑さと不統一が問題視されていきます。
これらの問題を解決するために東京市は1936年(昭和11年)に政府に対し、改めて都制度の実現を求めますが実現していません。
念願だった「東京都」は、1943年(昭和18年)にあっけなく誕生します。
1942年(昭和16年)にはじまった太平洋戦争の戦況は悪化の一途をたどり、1943年(昭和17年)には東京、名古屋、広島などに空襲されるほど状況は切迫していきます。
戦況の悪化に伴い国内では、政治から市井の生活まで全面的に戦時色が強まっていきました。
政府は戦時対応をスムーズに行うため、「市制」「町村制」「府県制」の3つの法律を改正して地方統制の強化を進めました。その一環として1943年(昭和18年)、新たに東京都制を制定します。
これによって東京府と東京市は廃止され、同年7月1日に国の直下に東京都が新設されました。
今日は東京市の大晦日。明日は東京都の元旦
東京都の誕生を報じる新聞記事は、戦時下に国の検閲を受けていることもあってか、一面祝福ムードです。
「けふぞ 東京都 進発の日 『せっかちは大禁物 じっくり実行だ』」(昭和18年7月1日「朝日新聞」)
「世紀の晴れ姿を祝福 颯爽、再出発する職員6万」(同上)
6月30日には東京市に別れを告げる「市政記念式」が日比谷公会堂で執り行われ、2000人を超える参加者が集まりました。
当時の岸本綾夫市長は「名残惜しさも感ずるが、今日は市政の大晦日。明日は都政の元旦だ。新しい都を力強く運営されることを念じ、私は明日から一都民となり総力戦の一戦闘員として奮闘する」と式辞を述べています。
当時の内務大臣、安藤紀三郎も東京都発足の意図を語っています。
「東京都制定の旨趣とするところは、帝都の国家的意義と重要性とに対応する確固たる体制を確立し、(中略)帝都一般行政の一元的にして強力なる運営を期すると共に、これが根本的刷新と高度の能率化とを図り、以って帝都行政をして時運の進展と国家の要請とに即応しその真面目を発揮せしめんとするにある」
明治時代に東京府が発足して以来、長年にわたって「非効率だ」「現実に即していない」とたびたび改革案が出されたにもかかわらず実現しなかった「東京都構想」も、敗戦間際になるといとも簡単に鶴の一声で決まってしまいました。
2020年現在、議論の続いている大阪都構想が、今後どのように進展していくのか(もしくはしないのか)、注目しましょう。
※参考資料:「東京23区のなりたち 東京大都市地域の物語」(公益財団法人特別区協議会刊)、「朝日新聞」
「東京都」の発足を伝える新聞記事(ともに「朝日新聞」昭和18年7月1日号)