後藤 斎 ごとう・ひとし 議員
1957年 山梨県生まれ。東北大学経済学部を卒業後、農林水産省入省
2000年 衆議院議員選挙に民主党から出馬し初当選(4期)
文部科学大臣政務官、内閣府副大臣、国対委員長代行などを歴任
その後、議員辞職し2015年の山梨県知事選挙に出馬し当選
2025年 参議院議員選挙に国民民主党から出馬し当選(1期)
2014年に安倍政権が打ち出した「地方創生」は、その後の10年間でさまざまな施策を生んだものの、地方の人口減少には未だ歯止めがかからない状況です。今回のインタビューでは中央官僚、国会議員、知事を経験し、国政と地方行政の両方を知る後藤斎議員に、地方創生に必要な視点や国と地方自治体との関わりについてお聞きしました。
(取材日:2025年11月21日)
(文責:株式会社PoliPoli 河村勇紀 )
「米騒動」「自由化交渉」きっかけに農水官僚から政界へ

ー農林水産省に勤められていた後藤議員は、なぜ政治家に転身されたのでしょうか。
きっかけは1993年に起こった平成の米騒動です。当時、私は食糧庁という米を中心とした組織で、輸入や企画担当の課に所属をし、庁内全体のとりまとめをしていました。2年連続の冷夏による米の不作で、日本人が食べる消費量に対して生産量が足りなくなり、海外から緊急輸入する必要性に迫られました。一方、当時はGATTウルグアイラウンドで米の自由化交渉が行われており、日本は関係各国から米の輸入自由化を迫られていました。
政治の世界では、自民党政権から細川政権になった時期でした。政治改革の流れの中で、自民党が分裂して、色々な少数政党ができて、細川政権が誕生しました。そういう時代なので、行政も権限を与えられていて、色々な国会議員の方々とも意見交換をしました。「米は1粒たりとも輸入しちゃいかん」という声が強い中で、「いやいや、2年連続冷夏でもう生産量が足りないんです。現状のままでは、このあとパニックを起こしますよ」と説得をしてまわり、輸入に踏み切りました。一方で、国際交渉では「全部自由化をしろ」と迫られていました。国際交渉をしながら、国内の必要な量を海外から輸入するということを経験しました。
その経験の中で、私は行政の限界、行政官という立場の限界を感じたんですね。いま思えば、若気の至りだったかもしれませんが、「政治というのはこんなものなのかと、自分だったら、こうすれば政策をもっと前に進めることができるのではないか」という思いが芽生えて、米や食料だけではなくて幅広く、自分の問題意識のあることについて、法律をつくる、予算を執行するということができるんじゃないかと。それで、1995年に官僚を辞めて国会議員を目指しました。
ー2000年に初当選されました。官僚時代に見ていた国会議員とのギャップはありましたか。
民主党議員1年目の時に総務委員会に配属されました。総務委員会では、地方自治や郵政など色々な政策を扱います。その中で、自分だけの考えではなくて党全体の意見をまとめる、党だけでも政策は実現できないので、当時は自民党政権でしたから、自民党と交渉して合意形成をしなければ、1つの制度も法律もできないわけです。
官僚というのは、すでに基本的な方向性は決められており、具体的に成果をあげるためのプロセスを考えて、上司や事務次官や大臣の了解を取って政策を実行する仕事です。実行するというのは、行政でなければできないことです。一方で、議員は、政策を考え、調整をし、合意形成をしていく。そういう意味で自分で汗をかく部分は、官僚をやってる時よりもはるかにありました。
山梨県知事として直面した「がんじがらめの地方創生」

ー衆議院議員を4期務められた後、山梨県知事に立候補されました。どういうきっかけ、思いで首長になろうと決意されたのですか。
背景にあったのは、地元である山梨県の衰退です。2014年に衆議院議員を辞職しましたが、当時はデフレ経済の中で、人口がどんどん減って地域の活力が失われ、若い人の県外への流出も止まらない状況でした。子どもの数も減っていく、私は子どもが3人いますが、一番下は当時まだ高校生だったかな。子どもたちにとって何が足りないのかなと考えた時に、子どもの目線にたった環境を前提に「もう一度、人口が増えていく、可能性のある山梨県をつくりたい」という思いを抱いたのです。
そこで知事選に出馬する前に、自分の経験も含めて、山梨のこれからという形で、200ページくらいの本「ダイナミック山梨」をまとめたんです。過去と今、将来に向けてという3段階で、もともと山梨県にどういう産業や歴史があるのか、それぞれの業界と地域の現状、そして将来に向けて何が足りないのか、何をすべきかという課題をまとめた三段論法的な内容で、それを大きなテーマにして、選挙に出ました。
課題がある一方、ファナックや東京エレクトロンといった大企業が本社を構え、その波及効果も期待できましたし、リニア新幹線が開通すれば、関係人口の増加にもつながる状況でした。そうしたチャンスを生かしつつ、山梨県の発展のために尽くしたい、「知事」という最終決定できる立場で実現したいと考えたわけです。
ー地域の課題を国政で解決することと、知事として解決することには、どのような違いがありますか。
国会議員は、たとえ政権与党の議員でも省庁ごと、政策ごとに全く違う法体系があり、法律に基づいた予算制度の中で大臣が予算を執行します。国会議員はそのプロセスの中で、あくまでも一議員、政党の中の一議員という立ち位置になってしまいます。
それに対して、知事は執行権を持っています。もちろん「議会の議決を経なければ執行できない」という制度にはなっていますが、最終判断をすることができます。財政は財政としてしっかり県民の借金になるものは減らしていく。でも、本格的に使う部分はしっかり使いながら、それぞれの制度、目的、産業や地域、そして県民がプラスになるような視点というものを持ちながらやる。最終的に意思決定をする知事と、自身の問題意識はありますが、与えられた職責の中で活動する国会議員、そこが異なる点です。
ー地方創生が叫ばれてから10年以上が経ちますが、なかなか改善しない現状をどのように見られていますか。
民主党時代に「地域主権改革」を掲げて地方への権限移譲と一括交付金制度を創設しました。それは道半ばで終わってしまいましたが、2012年に再スタートした安倍政権でも石破茂さんが地方創生担当大臣となって推進することになりましたね。
問題なのは、交付金を出すにしても条件が多く、国が決めたことにしか使えないので、地域ごとの課題解決に結びつかないのです。それを知事時代に執行させてもらいましたが、条件がいっぱいあるわけです。何々にしか使っちゃいけませんよっていう。要するにもう基本的なベースは国ががんじがらめにしていて、じゃぶじゃぶお金が全部あるわけじゃないから、その中で各都道府県で一定の裁量はあるけれども、それ以上は最終的には国が決めるということなんです。
国のガイドラインや基準に従ってやるとどうなるか、全国でいわば金太郎飴みたいな同じような政策になってしまいます。十数年、地方創生と言われて、担当大臣がおかれたにもかかわらずそうなっている。やはりがんじがらめの制度の中で、国が決めたものを実行するというところに、地方創生のある意味限界があるのだと思います。
「徹底調査で地域の強み活かす」独自エネルギー政策も推進

ーそうした制限の中で、知事として独自の政策をどう実現したのでしょうか。
私が知事だった4年間で、少子化対策や子育て支援的な政策は4つほど、全国の知事会の優秀政策をいただきましたが、やはりその地域で、山梨限定でできることは何か、何がいま、大切なのかっていうことを、まず徹底的に現状を調査分析することだと思います。
必要なのは何ですか?経済的な支援ですか?保育園みたいなものを重視する環境づくりですか?と。例えば、経済的な負担をしてほしいとなった時に、財源は十分にはないし、第2子、3歳未満児に限って、保育料無料化を僕が2年目にさせてもらって、第二子を産むインセンティブにもつながりました。
その時に並行してやったのことが、お子さんが急に熱が出たり病気になって、親御さんが仕事を休まなきゃいけない時の病児病後児保育の保育園の連携です。ドクターやナースがいる施設は、今までは市町村別でした。例えば、車なら5分もかからずに行けるのに、違う行政区域とか市町村だから診てくれないと、その垣根を取りを取り除きましょうよと、誰でも全県で使えるように連携しましょうよという仕組みをつくりました。
このように、いまある制度や施設でも、行政の垣根を外すこと、連携をすることで解決できることはいっぱいあるんです。
ー地方創生は知事のリーダーシップにも左右されると思いますが、その点で心がけていたことはありますか。
知事は地方行政のトップではありますが、一人ですべて考えられるわけではありません。その意味では、自治体の職員の働きが一番大切です。そのため、職員の皆さんが自由闊達に意見を出せる職場環境を整えることも知事には求められていると思います。知事や市長が「これをやるぞ」と言っても現場が動かないケースもありますからね。独断専行で施策を進める人もいるかもしれませんが、やはり職員と一体になって意思決定し、自分が最終責任を負う、ということを私は重視していました。「三人寄れば文殊の知恵」と言いますが、これが10人になればもっと良い施策が生まれるわけです。それをうまく束ねる資質がリーダーには求められると思います。
ー地方創生で成果を生むために必要な視点は何でしょうか。
年金や学校教育など、国全体のスタンダードになっているものは、そのベースがあります。そのようなナショナルスタンダードに、各地域の得意なこと、特性をいかに組み合わせるか、という視点が大切です。
例えば、エネルギーでも、山梨県はメガソーラーも含めて、実は全体で消費する倍以上の発電の施設を持っているんです。それを生かすことをどう考えようかなと思って、自前の安価で十分なエネルギーがあることは、産業政策的にもメリットがあるし、いまあるものをちゃんと使おうよと。企業誘致にもつながるし、県民生活にもプラスになるんじゃないかと考えました。
そこで、私が知事として取り組んだのが「やまなしパワー」という電力供給ブランドの創設がです。これは山梨県の豊かな水資源を活用し、東京電力と組んで県営の水力発電所から生まれた電気を「やまなしパワー」のブランド名で県内企業に通常よりも安く供給する仕組みです。この施策を通じて、県内企業の経営を支援するとともに、県外からの新規立地や雇用の創出をめざしました。この取り組みも、知事会の優秀政策に選ばれました。
このように「強みを生かす」という視点を最初から持って取り組めば県民も企業も喜ぶ施策につながるのではないでしょうか。同時に、地域の資源を守ることも考える必要があります。当時、メガソーラーが全国に広がっていましたが、まだルールが整備されておらず森林破壊などが問題視されていました。そこで山梨県は全国に先駆けて事業用太陽光発電施設に求められる適正導入のガイドラインを策定しました。
「地方創生」や「活性化」という言葉には、明確な定義がないのだと思います。それぞれの地域で強みを生かし、結果的に貧困の撲滅や健康寿命の改善、経済成長など、SDGsにも通じる効果を生むことがすべて含まれるのではないでしょうか。
再び国政へ「食料・エネルギーの自給率アップが成長のカギ」

ー今回、改めて国民民主党から参議院議員として国政に戻られましたが、抱負を聞かせてください。
選挙では300近い公約を立てているので、それをどうまとめていくか、がこれから問われます。私としては「食料」と「エネルギー」、つまり国民の胃袋と経済の基盤を守り、発展させることに力を入れていきたいと考えています。
日本のGDPは、もうすぐ世界5位に転落することが確実視されていて、これは税金を積み込めば何とかなる問題ではありません。貿易赤字は数十兆円規模に膨らみ、それでも石油や天然ガス、食料など常時輸入しなければならない資源は数多くあります。これを持続可能にするためには、やはりエネルギーと食料の自給率を引き上げていく必要があるのです。
これからの「成長産業」といわれる半導体やAI、データセンターなどは、膨大な電気を必要とします。実際、ラピダスの工場が本格稼働すれば、北海道の電力の20~30%を消費すると予測されています。経済成長の歩みを止めないためにも、その土台となるエネルギーや食料には集中投資をする必要があります。
ー後藤議員から見て、国民民主党の良さはどのような点にありますか。
国民民主党はまだ中堅政党なので、自由闊達に意見が言えるところではないでしょうか。ですから、若い議員さんたちも自身の専門性を早く見つけて、それを生かしてほしいと思っています。一方で、その専門家だけでなく、多くの人が議論に参加して合意形成できる点も国民民主党の良さなので、しっかり生かしていきたいですね。
ー最後に、これまでの経験を踏まえて日本が将来めざすべき国家ビジョンを教えてください。
私が農林水産省に入った時代は「ジャパン・アズ・No.1」と言われて、一番元気な時代でした。ニューヨークや東南アジア諸国に行けば、日本企業のネオンサインが数多く目に入ってきたものです。それが今では、ほとんど中国や韓国の企業に変わっています。
No.1になれなくても、日本をもう一度、尊敬される国にしたいと思っています。それはイコール軍事力が強いということではなくて、やはり経済的な豊かさ、生活に余裕があるということが、大切な視点だと思います。
この国が経済的にもう一度、成長軌道に向かうかどうか、また新しいビジネスサービスが生まれてくるかどうか。大切なのは、社会のいわゆる心の部分も含めて活力ある国や地域にできるかという点だと思います。繰り返して言えば、地方がどうしたら良くなるかというのは、自分たちの地域が、他の地域に比べてどんな優位性があるのか、産業的にどう違うのか、今の状況をしっかり見極めた上で、5年後、10年後、どう生かすかということを政策にやっていくことが必要ですし、やはり自分の良いところ、この日本の良いところ、その地域に良いところ、それぞれの強みをもう一回見つめ直すことが、すごく大事だと思いますね。













