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政治ドットコムトピックス第1回衆議院議員議員選挙における当選者の納税額ランキング(前編)

第1回衆議院議員議員選挙における当選者の納税額ランキング(前編)

投稿日2020.12.3
最終更新日2020.12.03

1890年(明治23)年に行われた第1回衆議院議員総選挙では、立候補するためには「直接国税15円以上」が義務付けられていました。
全当選者の平均納税額は126.9円。これは、現在の貨幣価値に直すと、およそ48万円に相当します。
では、もっとも多額の納税をしていたのは誰なのか。一方、もっとも安い納税額で当選した議員は誰なのか、調べてみました。


最高額は「2200円」、最低額は「15円」

第1回衆議院議員議員選挙に当選した議員は300名。そのうち、もっとも多額の納税をしていたのは、広島県の八田謹二郎氏の2230円20銭でした。
明治時代の物価は現在の約1/3800と考えられています。
この定義に当てはめると、2200円は現在の貨幣価値では約836万円に相当します。

広島県文書館がまとめた「明治期地方名望家のあゆみ」では、八田家について詳しくまとめられています。
「八田家は、近世以来の山林地主であり、当主は佐伯郡の割庄屋や同郡玖島村の庄屋等の役職を歴任しました。(中略)「東屋」 の屋号を持ち、林業のほか、酒造業・醤油醸造業等の経営も行っていました。」とあるように、代々裕福な家柄の地元の名士として知られていたようです。

勤二郎は1873(明治6)年に佐伯郡の戸長に就任し、地域行政の一端を担います。その後、国政に挑み見事当選。以来、2期にわたって衆議院議員として活動しています。

衆議院議員を辞した後も、地域の発展のために尽力しました。
謹二郎について「佐伯郡誌」ではこのように紹介しています。
「慈倹夙(つと)に世業を継で力を森林の栽培に竭(つく)す」
「毎歳杉・檜・松・栗の諸苗を増殖すること数万株」
「未嘗(かつ)て之を人に委ねず、勉めて栽培を慎重し、厳に濫伐を戒め」
「為に水源を涵養(かんよう)し、灌漑の利を増し、余沢近隣に及ぶ」
家業の山林経営で活躍するのと同時に、学校や役場、警察や道路建設などに多額の寄付を続けたり、厳島神社保存金の募集活動を行ったりと、名望家として地域に大きな貢献を果たしています。

わずか2年余りで議員活動を終えたところを見るに、国会議員として地域、国に貢献をするよりも、自身の商売で生み出したお金を使って、直接地域の役に立つほうが手っ取り早い、またはやりがいを感じたのではないかと考えられます。

一方、国税15円をギリギリ納税して立候補、見事当選を果たしている議員もいます。
その一人である小林樟雄氏は、1856年に岡山藩士の子として生まれています。
15歳からは官立の京都仏学校でレオン・デュリーの元、勉学に励みます。
その後、仏学校が廃止されデュリーも転任すると、デュリーに従って上京しました。

その頃、板垣退助が中心となって盛り上がりを見せていた、自由民権運動に参加。岡山で西毅一らとともに政社を結成し、国会開設の請願を行っています。
その後、自由党の岡山県支部として山陽自由党を結成したり、中国毎日新聞を創刊して社長に就任するなど、積極的に活動を続けています。
そして迎えた1890(明治23)年、第1回衆議院議員総選挙に出馬して当選。合計3期にわたって国政に携わっています。

この第1回衆議院議員総選挙への立候補直前の6月、牧野逸馬を著者にした「小林樟雄君之伝」が発行されています。
おそらく、選挙を見据えた小林氏のプロモーション・ツールとして作られた本書では、小林氏はこのように紹介されています。
「学深く、議高く、気節凛然、その廉潔正義の行いで、憂国厭世の世の中を起こし得る政治家がこの世にいるだろうか。著者である私は、岡山県にそのような男がいることを知っている。その男の名は、姓は小林、名は樟雄という」(※筆者意訳)と、明治時代ならではの、豪放磊落な表現で小林氏を絶賛しています。

明治23年当時、この「直接国税15円以上」を自らの生業で払うことができず、周囲からの借金でまかない立候補する議員が多くいたことが知られています。
岡山藩士の家に生まれたとはいえ、若い頃から政治活動に熱中し、新聞社を創設するなどしていた小林氏には、それほど多額の現金がなかったのでしょう。「ちょうど15円」という納税額は、そのことを示しているものと考えられます。

この最低額15円ちょうどから八田氏の2200円まで、大まかな納税額の分布を見てみましょう。


15円から50円までの割合が、全体の57%と半数以上を占めます。
一方で、4人に1人が100円以上を納税している高額納税者ということになります。

この選挙では、後世に長く名を残す、名義員も多く当選しています。彼らはいったいいくらの納税額だったのでしょうか。
総理大臣を経験し、5.15事件で命を落とす犬養毅氏は16.2円(全300人中275位)、以降、60年以上にわたって当選し続け、「憲政の神様」「議会政治の父」との異名を持つ尾崎行雄氏は33.8円(全300人中162位)と、それほど多額の納税をしてはいません。
一方、足尾鉱毒事件の解決のために私財を投じて活動を続けた田中正造氏は56.6円(全300人中119位)と、彼らよりもよっぽど多額の納税をしています。

※参考資料:「帝国議会代議士名鑑」石川震東著(明治23年刊行)

この記事の監修者
政治ドットコム 編集部
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