政治ドットコムトピックス外国人が日本人の脂を搾り取る?〜誤解から発生した大規模一揆

外国人が日本人の脂を搾り取る?〜誤解から発生した大規模一揆

投稿日2020.9.14
最終更新日2020.09.14

明治初期、政府は数々の制度を立て続けに作り上げていきます。
それらの新しい制度は国民に初めから受け入れられたわけではなく、数多くの混乱を経て次第に浸透していきました。
戸籍法や徴兵令が国民に提示されたときにも、誤解からくる不幸な事件が起こっています。
通称「脂取り一揆」と呼ばれるこの事件について見てみましょう。

戸籍法と徴兵令への「誤解」

日本で初めて戸籍法が発布されたのは1871年(明治4年)。その目的は、戸数や人口を正確に把握し、徴兵や税金を適切に行うことが目的のひとつでした。
続いて、1873年(明治6年)には徴兵令も施行されます。
ここで全国的な徴兵制度を断行することができるようになりましたが、その背景にはこの戸籍法に基づいて、明治5年に壬申戸籍が作られていたことがありました。

戸籍が作られ、全国的に徴兵が行われる。
このような社会的変革を前に、一般市民は混乱します。
一体何が起こっていて、自分たちにどんなことが行われるのか、わからないままに時代の渦に巻き込まれる人々も多くいたようです。

明治4年10月、このような不安が頂点に達し、一大事件が勃発します。
高知県の一寒村に、おかしな噂が流れてきます。
「お国のお達しで、男子が召し上げられ、外国人の脂取りに使われる」
「戸籍法の発布にともなって、各家々の戸口に番号を打ち付けているのはそのためだ」
「高知県にある五台山にある病院には、外国人が日本人の脂を取るための特別なベッドが用意されている」
なかには、「この間、道を歩いていた人がさらわれ脂を抜き取られ、真っ青な遺体となっているのを見た」というものまで現れる始末。
もちろん、これらはすべて根も葉もない噂ではあったのですが、これらの噂を信じてしまうほど、当時の人心は混乱をきたしていたということでしょう。

明治維新前後の尊皇攘夷の精神も、これらのデマに火を付けるきっかけになりました。
攘夷思想に染まった庶民は、外国人に憎しみを抱いていました。
国もそうだと信じていたにもかかわらず、蓋を開けてみれば維新後は手のひらを返したように開国策を積極的に取るようになり、外国と手を結びます。庶民はこの変化についていけなかった、不安と混乱が根強く残っていたことも背景にあったと言われています。

このデマを背景にした人心の混乱は甚だしく、特にひどかった地域では、県庁に「なんとかしてほしい」との嘆願書まで出しています。
しかしある日、土地の占い師だった隅田教学は、農民たちに頼まれ事態を占います。
安徳天皇の御陵として知られる横倉神社のご信託をうかがってみたところ、次のような結果が出ました。
「外国人は残忍だ。人間を犬畜生のように扱ってはばかることがない。いま、外国人たちは我々の脂を搾り取り、皮は切り刻んで、肉は食べるつもりのようだ。ここに至っては兵を起こし、腐った官吏を倒し、外国人どもを追い払うべきだ」
ここに、一揆は避けられない状況となりました。

集った1700人が大規模反乱を起こす

一揆の首謀者は平家の子孫を名乗っていた竹本長十郎が推挙されます。
背も高く、相撲も強く、先祖代々伝わる黒川縅(おどし)の鎧も持っていました。
竹本の下には、1700人もの人々が集いました。
彼らは各々、槍、刀を持ち、かがり火を焚き、喚声を上げます。
自製の大砲もありました。

集った彼らは、まず役所を襲います。
日本人の脂を搾り取るために作られた(と信じられた)戸籍を破棄するために探しますが見つかりません。
すでに、一揆を察知した役所側は、下っ端役人の家に移し隠していました。
暴徒たちは役所にいた人間を縛り上げ、脅しを掛けると、岡林作三郎という役人が自宅に戸籍を隠していることがわかります。
早速、岡林を探し出して本陣へと連れて行く途中、岡林は足を踏み外し谷底へと落下してしまいます。
なんとか命をとりとめた岡林は、その足で高知県庁に報告。ここにいたって、県から一揆鎮圧の命令が出ます。

鎮圧軍の大将は、佐賀の乱で政府に反旗を翻した江藤新平を捕らえたことで知られる、細川是非之助。
彼は数十人の部下とともに一揆に参加した面々の説得を行うと同時に、スパイを使って一揆軍の弾薬を盗ませ、戦力を削いでいきます。
多量の弾薬を失った一揆のリーダー、長十郎は、役人たちの泊まっている旅館の焼き討ちを計画します。

ゲリラ戦術へと移行した一揆に鎮圧軍は対応できず、現場からは国からの出兵依頼が発せられました。
しかし、その依頼を聞いた大参事の林有造は「騒ぎを大きくしたくない」と応じず、鎮圧軍への援軍派兵で対応します。

林の命を受けて新たに派遣された大谷小伝次は、足の怪我の治療を行っていた長十郎を格闘の末に確保。
さらに、この一揆のきっかけとなった占い師、隅田教学も役場を襲ったり役人を自刃させたりと奮闘していましたが、長十郎捕縛されるの報にひるんだところをこちらも捕らえられました。
彼ら首謀者が捕まってしまったことで一揆軍は散り散りとなり、戦いは収束しました。

鎮圧軍は一揆の首魁と見た長十郎ら5人を処刑することを決定します。
まず長十郎の首を斬ったところで、一揆の残党が再び襲いかかり発砲してきたため、一度後方に引き上げ、翌朝残り4人の処刑を行っています。

長い江戸幕府の統治から明治維新後の近代政府へと生まれ変わる途上には、このような悲劇が全国各地で見られました。