外交から縁戚強化まで首相夫人に求められる「役割」
戦前から戦後直後まで、内閣総理大臣の夫人は多く「首相夫人」と呼ばれていました。
戦後、彼女たちは「ファーストレディ」と呼称が変化していきますが、戦前と戦後とで変わったのは呼び方だけではありませんでした。
「首相夫人」または「ファーストレディ」には、歴史上これまで3つの役割が期待されてきました。
①外交時や選挙時の政治的な役割
②首相の縁戚関係強化の役割
③首相一家の家事を取り仕切る役割
それぞれへの期待は現在でも割合を変えながら続いていますが、時代とともに「もっとも期待される役割」が変化しています。
明治時代の「首相夫人」にもっとも期待されたのは、①の外交面です。
鹿鳴館に象徴される外交の場。各国の要人や政府の大臣たちとの交流の場に首相夫人も顔を出し、華やかに振る舞うことで夫である首相をサポートしました。
そのためか、当時の首相夫人には芸妓(※舞踊や音曲・鳴物で宴席に興を添え、客をもてなす女性)出身者が多く見られます。
伊藤博文夫人の梅子氏、西園寺公望内室の玉八氏、山縣有朋後室の貞子氏らは、いずれも当時、圧倒的な人気を誇った新橋の芸妓でした。
首相以外にも、板垣退助、陸奥宗光など、芸妓出身者を妻に迎えた政治家は数え切れないほどいたようです。
大正時代になるとこの風潮に変化が見られます。
政党政治の発展に伴ってのことでしょうか、妻方の親類を中心に形成された血縁や婚姻に基づく親族関係強化を期待した、②の役割が強まっていきます。
強力な政治力や経済力を持った人物の娘などを妻に娶ることで、藩閥や財閥の力を得ようという動きです。
たとえば、第24代総理大臣を務めた加藤高明は、岩崎彌太郎の長女・春路(はるじ)と結婚しています。
同様に、第44代総理大臣を務めた幣原喜重郎も岩崎彌太郎の娘を妻に迎えていることから、ふたりは義兄弟の間柄ということになります。
当然、ふたりの関係性は深まっていき、1924年(大正13年)の加藤高明内閣が発足すると、幣原は初めて外務大臣に就任しています。
岩崎彌太郎といえば押しも押されもせぬ大財閥、三菱財閥の創業者であり初代総帥として知られています。
経済的な援助はもちろん、当時の経済界の大物たちとの人脈も活用できたことでしょう。
加藤の例に見られるように、それまでの藩閥政治の外側にいて、「普通に働いていたのでは出世が難しかった政治家」が、妻の縁戚を頼ることで一躍スターダムへとのし上がっていく、こういった例が多く見られます。
淑女として振る舞うことで首相のイメージアップ
大正時代に始まった政党内閣が花開き、日本に根づいてくると今度は③の役割に注目が集まるようになります。
選挙が当たり前になり、有権者から票を集めることの重要性が高まっていく中で、「首相夫人」には首相のイメージ向上の役割が期待されるようになっていきます。
特に戦前は、首相夫人の貞淑さや謙虚さ、家庭生活をいかに質素に送っているかといった点に注目し、新聞などのメディアも首相夫人にフォーカスを当てていきます。
それまでは、組閣直後に一瞬、夫人についても触れられる程度だった報道が、首相夫人本人へのインタビューや行動、考えについての記事報道が行われるようになるのもこの頃です。
一国の総理大臣といえども、しっかりした妻が家を守り、堅実かつ質素に暮らしている。このイメージを当時の有権者たちにアピールすることが重要な意味を持ちました。
現在のジェンダー論から見ると違和感のある考え・姿勢かもしれませんが、決して彼女たちは家に押し込められ、人生を家族のために棒に振らされていた不幸な人たちだったわけではありません。
「平民宰相」のあだ名で知られる原敬。彼は第19代の内閣総理大臣も務めました。
もともと藩閥の縁者だった妻と結婚しますがその後離婚。
ほどなく、新橋の芸妓だった浅氏と再婚します。
彼女は原が先妻と離婚する前から原の身の回りの世話をしており、再婚後は原家のことは一切合切、彼女が取り仕切っています。
原の養子となり、間近でその暮らしぶりを見ていた原奎一郎氏が後年著した「
ふだん着の原敬」(中公文庫)には、浅氏が家内のことについては原を尻に敷き、一切手を出させず、原本人も「まったくこれには敵わない」と信頼しきっていた様子がつぶさに書かれています。
さらに浅氏は積極的にメディアにも登場。今日の「ファーストレディ」の先駆けともいうべき活躍をしています。
戦後になると、それまでの貞淑さと謙虚さが求められた「首相夫人」から、首相の外遊への随行での他国の要人夫人とのコミュニケーションや、選挙時のメディア戦略の一端を担う「ファーストレディ」へと性格が変化します。
その嚆矢となったと言われているのが、麻生和子氏です。
和子氏は第92代総理大臣を務めた麻生太郎氏の母親にあたる人物。旧姓は吉田です。
この苗字からも伺われるように、彼女は第48〜51代の総理大臣を務めた吉田茂の三女として育ちました。吉田茂の私設秘書としてサンフランシスコ講和会議にも同行するなど政治の舞台でも活躍を続けた後、福岡で事業を営んでいた麻生太賀吉と結婚、長男の太郎を出産しています。
和子氏が吉田茂に公私にわたって直言をしていたことは広く知られており、ある年に吉田が首相の後継指名を受けた際、記者へのインタビューで「あれ(和子氏)を福岡から呼んである。あれのOKを取らなければ返事ができない」と、答えたといったエピソードも伝わっているほどです。
もちろん、この言葉は半分冗談なのでしょうが、いかに信頼されていたかが伺われます。
吉田に朝から晩までつきっきりで寄り添い、記者嫌いで有名だった父に代わって記者クラブとの記者たちとも緊密なコミュニケーションを図り、メディアにも積極的に登場する。
和子氏は吉田茂の「妻」ではありませんでしたが、後年の総理大臣夫人である「ファーストレディ」に期待される役割を戦後直後に体現し、のちのファーストレディたちに多大な影響を与えました。
時代の変遷、メディアの進化、国民たちの期待の変化にともなって変わってきた総理大臣夫人の役割。
今後もまた、時代に合わせて新しい活躍が見られるかもしれません。
※参考文献:「ふだん着の原敬」(原 奎一郎著)/「増補新版 歴代首相物語」(御厨 貴編)