尋常じゃない用心深さの持ち主
陸軍の大巨頭で、最後までその地位を保持した山縣有朋は、軍縮論者でもあった尾崎行雄にとって終生のライバルと言っても良い存在でした。
尾崎自身は「ただ敵として遥かに見ていたに過ぎない」と語っていますが、その政治家人生の中で、何度かの邂逅を果たしています。
維新の三傑と呼ばれる西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允のあとを受けて日本政界の立役者となったのは伊藤博文、大隈重信、そして山縣有朋。
この三人を並べたとき、「山縣公が一番優れていた」と、尾崎は振り返っています。
その理由として、もともとの才能が優れていたのか、修養を積んでいた(※山縣は老いた後も毎朝槍、馬の修練を怠らなかった)からかは分からないがと前置きした上で、「恐ろしく注意深かった」ことを挙げています。
そのためか、常にどんな問題を目の前にしても、二重にも三重にも考えていたため、生涯を通して大きな失敗をしなかったと語ります。
実際、山縣は83歳で没するまで、常に最前線で多大な影響力を誇示していました。当然敵も多く、その生涯で何度か刺客を放たれ、命を狙われたこともありましたが、それでも最後は畳の上で死ぬことができた(※死因は肺炎と伝わる)のは、その注意深い性質ゆえだったのかもしれません。
尾崎が直接体験した「山縣有朋の注意深さ」に関するエピソードも秀逸です。
大正天皇が即位した際、京都で大宴会が催されます。
尾崎は妻とともに参加しますが、尾崎の妻が案内された席は、山縣有朋と松方正義に挟まれた席。
当時、山縣は70歳過ぎ、松方は80歳近い年齢です。
もはやなにを言っているかわからない老人との会話に困惑した尾崎の妻は、宴会に出ていたパンを題材に会話を進めます。
当時、日本製のパンは質が悪く美味しくなかったため、多少金銭に余裕がある家庭では、自宅でパンを焼いていたのです。
その会話の中で、尾崎の妻は山縣に「今度、手製のパンを送りますね」と約束します。
後日、尾崎の妻が約束通りパンを焼いて小包郵便で山縣宅へと送ると、山縣家は大騒ぎ。大混乱となります。
お付きの警備員が招集されると、パンの入った小包を丁寧に地面へと置き、用心深く一枚一枚、包装紙を解いていきます。
「尾崎から時限爆弾が送られたに違いない」と思い込んでのことでした。
開けたらパンが入っています。しかしここで安心せず、念のためさらに成分分析まで行ったといいいますから、山縣の用心深さは尋常ではありません。
分析結果が出るまで数日はかかったことでしょう。
せっかく焼いた美味しいパンも、味は落ちてしまっていたかもしれません。
裏切った部下をも許す懐の広さ
同書の中で、尾崎は伊藤博文を評して「人にも物にも執着がなく、用が済めば簡単に捨ててしまうので、生涯を伊藤に捧げようという部下は最後までいなかった」と書いています。
山縣は伊藤とは真逆で、自分に尽くす門下の人間には厚く尽くしたため、多くの者が慕っていたと伝えます。
しかも「公(※山縣のこと)のためには命をも投げ出そうというようなものもたくさんあった」と言いますから、相当なものです。
山縣の門下に望月小太郎がいました。
弁護士であり国会議員でもあった彼は、山縣と親しく付き合っていましたが、いつしか主義を変え、軍閥政治を倒すべく行動をはじめました。
かわいがっていた子分に裏切られた山縣でしたが、望月に対してはその後も続けて目をかけ続け、晩年にはすっかり仲良くなっています。
「自分を裏切ったものを排斥するのは普通の人間の人情であるが、公はこれを捨てずに優遇していたのだから実に関心なものだと思っている」と、尾崎も高く評価しています。
山縣は海千山千の大英雄ですから、一筋縄にはいきません。相当な曲者でもありました。
尾崎も出席していたある国務会議の席上でのこと。某大臣が真正面から山縣に反論をぶつけました。その論調は理路整然、論理の破綻もなく、誰が聞いても「そのとおりだ」と思える内容でした。
さすがの山縣も、これへの返答は苦しいだろうと、尾崎は興味深く見ていました。
すると山縣は、「ななめに天井を仰ぎ、ただ一言『それは理屈じゃな』といったきりだった」。
議論で勝てる相手には堂々と論難攻撃し、議論で負けそうなときには一言「それは理屈だ」とつぶやいてうそぶく。実に老獪な面がありました。
生涯一軍人だった山縣有朋
山縣は典型的な軍人でした。
そして、必要以上に軍人の面目を重んじたと尾崎は評しています。
尾崎が山縣から直接聞いたエピソード。
明治天皇の御代、天皇との会食の際にご機嫌になった天皇が「なにか面白い話はないか」とお尋ねになる。
するとある人が「陛下、ございます。先日、山縣が落馬しまして……」と話し始めると、天皇はすこぶる嬉しそうに「なに? 山縣が落馬した?」と仰せになりながら、筋向かいに座っていた山縣に視線を送ります。
場の視線を一身に受けた山縣は、襟を正すと断固たる声色で「左様なことはありません」と答える。
「本当になかったのか?」との天皇からの問いにも「ありません」と山縣。
せっかく盛り上がった会食の場も、山縣の頑なな態度に一気に白けてしまいました。
会食も終わり、玄関を出て歩き始めた山縣に、先ほどの某人が話しかけます。
「ひどいではないか! 陛下の前であんな嘘を言って。私に恥をかかせるつもりですか?」
すると山縣は、また威儀を整えて一言。
「武将の体面には代え難いとご承知あれ」
尾崎が直接見聞きした歴代首相を振り返っているエッセイを収録している著書「随想録」ですが、尾崎にとって強敵だった山縣を、もっとも高く評価し、もっとも多くの紙幅を割いています。
憲政の神様から見ても、一筋縄にはいかない歴史上の傑物だったということでしょうか。
※参考文献:尾崎行雄著「随想録」(昭和21年・紀元社刊)