即席で作られた日本の貴族制度
明治維新後、政府の高官たちは視察のために数多くの国を訪れます。
その視察において、ヨーロッパに貴族と呼ばれる階級があることを知ります。
ヨーロッパの貴族たちは、代々続く名家。教育水準も高く、高い教養と洗練されたマナーを身に着けており、社会の指導者的な立場につくものも多くいました。
このことを伝え聞いた伊藤博文や政府高官たちは、この制度を日本にも導入できないかと考えます。
明治維新後、日本には元公家や元大名といった、旧幕府の特権階級の処遇が宙に浮いたままで、彼らをヨーロッパにおける貴族のような位置に据えられれば、この問題も解決すると考えてのことでした。
1869年(明治2年)、版籍奉還にともなって、公家142家、旧大名285家の合わせて427家が、新しい身分「華族」と称されることになります。これが日本版貴族制度の始まりでした。
1884年(明治17年)には華族令が制定。それまで「華族」とひとくくりにされていた身分が5つの階級に分けられます。
上から、公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵に分けられたことによって、公家や大名出身者だけではなく、明治維新で大きな功績を挙げた者にも爵位が贈られることになりました。
華族階級にはさまざまな特権が与えられました。
華族の財産は第三者から差し押さえられることがなく、家を存続させるための財産が特権で守られました。
「家憲」が認められたのも華族でした。
家憲は、いわば家族内での憲法、つまりしきたりのことですが、単なる家庭内のルールにとどまらず、法的拘束力も認められました。
そのため、家憲が絡んだトラブルが裁判に発展した場合、裁判官は法律のみならず家憲も考慮に入れた上で裁判を進めることになりました。
ヨーロッパの貴族が高い教養と社交術を持っていたことも影響しているのでしょうか、教育面でも優遇されています。
1877年(明治10年)に設立された学習院(学習院大学の前身)。華族の子弟は入学でき、高等科までの進学が保障されました。
また、帝国大学に欠員が発生した場合、華族の子弟は無試験で入学が許されています。
また、1869年(明治22年)に帝国議会が始まると、華族は貴族院の議員としての活動が認められました。
公爵、侯爵には30歳以上の者全員に議席が与えられ、伯爵以下の身分には半数を7年ごとに改選しています。
ただ、さすがに歳費(国会議員に国家が支給する一年間の手当)は認められていません。
数多くの特権を認められた華族には、社会のお手本としての行動が求められました。
犯罪を犯すなどというのはもってのほか。世間の批判にさらされるような行動は、厳しく慎むよう要求されました。
当時の宮内省には「宗秩寮」という、華族の行動を監視する機関が設置され、華族の名誉を汚すような行動が取られていないか、チェックされています。
それでも、何らかのトラブルは発生します。
1935年(昭和10年)には、海軍大将で侯爵の爵位を授けられた東郷平八郎の孫が、浅草のカフェの女給になっているとすっぱ抜かれ、一大スキャンダルとなりました。
当時の「カフェ」は、現在の喫茶店とはイメージが異なり、どちらかといえばキャバクラやガールズバーに近いものでした。
「国から多大な恩恵を与えられている特権階級の孫娘が、キャバ嬢になった!」となれば、たしかに現在でもそれなりの騒ぎになることは理解できます。
生活に困窮する華族もいた
では、当時の華族たちの暮らしぶりはどのようなものだったのでしょうか。
豪邸に住み、貴族のような優雅な暮らしを続けていた……のかといえば、実際はそうでもなかったようです。
華族は大きく3種類に分けられます。
①先祖代々、天皇家に仕えてきた公家
②旧大名家
③平民で爵位を受けたもの
このうち、もっとも財産を持っていたのは②の旧大名家出身の華族でした。
彼らは、版籍奉還で領地を返還した代わりに、その石高に応じて多額の金禄公債が与えられました。藩主だった頃の収入よりは少ないものでしたが、その分、藩士に給料を払わなくても良くなったため、むしろ実質的な手取りは増えた家が多かったようです。
③の平民出身の華族も悠々自適な生活を送っていました。
特に、旧財閥の当主として爵位を受けた者は莫大な財産を保持していました。
苦しい生活を送っていた華族は①の公家出身者でした。
彼らは維新前から経済的に恵まれていたわけでもなく、資産はほとんどありません。
しかも、華族になったところで名誉こそあれ、お金を支給されるわけでもありません。
しかし、国や国民からは華族としての振る舞いを要求され、その生活の苦しさに耐えられず、爵位を捨てる者もいた始末でした。
明治時代から戦前まで続いた華族制度ですが、戦後の日本国憲法に定められた「法の下の平等」の精神に則って、現在では姿を消しています。