「クリーンな政治」を掲げ自らも実践
三木武夫(首相在任期間:1974年12月9日〜1976年12月24日)
田中角栄に代表される、金と人脈で派閥を維持し、入念な気配りや根回しで自らの政策を進める議員を政治家の典型とするなら、三木武夫はその真逆の精神を貫いた政治家でした。
彼は戦前から戦後まで、通算15回の選挙に当選し続け、半世紀以上にわたって衆議院議員として活動を続けましたが、初めて挑んだ選挙から一貫して彼が掲げたスローガンは「金権政治の打破」「政党政治の浄化」でした。
大卒後、留学を経て帰国後に復学。卒業した昭和12年に行われた衆議院議員に出馬すると当選しています。
1974年(昭和49年)に田中角栄が金脈問題の追求を浴びて総理を辞任すると、三木が後継総裁に指名されました。
当時、金脈や人脈ではなく「政策で結合する正当づくりこそが近代化である」と考えていた三木は、強力な派閥を作ってはおらず、この指名の際には三木本人が「青天の霹靂だ」と語ったと伝えられています。
金満政治を世間から批判された田中角栄に対して「クリーン三木」として有権者の期待を集めますが、しょせんは少数派閥の長。三木派の議員はほとんど要職には就けず、政権発足当時に掲げた政治資金・選挙運動の改革、独禁法の改正といった課題も党内からの激しい抵抗に直面して頓挫、そして二度にわたる「三木おろし」の結果、1976年(昭和51年)に三木内閣は総辞職しています。
国民も驚いた「ゼンコーってだれ?」
鈴木善幸(首相在任期間:1980年7月17日〜1982年11月27日)
前任の大平正芳総理が、衆参同日選挙の選挙期間中に心筋梗塞で倒れ、1980年(昭和55年)6月12日に亡くなります。
衆参同日選挙の結果が出た6月24日以降、自民党の後継総裁選びが本格化。中曽根康弘氏や河本敏夫氏などが意欲を見せましたが、大平派が鈴木善幸を候補として擁立すると、田中(田中角栄)派、福田(福田赳夫)派も同調、7月15日に鈴木が総裁に選ばれます。
第70代総理大臣となった鈴木ですが、それまで外相や蔵相などを経験しておらず、国民に名前が広く知られた存在ではありませんでした。
総理就任がほぼ確実となったことを報じた「日本経済新聞」の記事の見出し「ゼンコー WHO?」が、そのことをよく表しています。
自民党結党以来、就任した歴代の首相は派閥の長として他の派閥の長と熾烈な闘いを繰り広げ、勝ち抜いた結果首相の座を手に入れていたのに対し、鈴木は派閥間の調整を行った結果、首相に就任した稀有な存在です。
鈴木は、岩手県下閉伊郡山田町のでアワビ漁や水産加工業を営む家に生まれました。
昭和22年に日本社会党から第23回衆議院議員総選挙に出馬し初当選。後に社会革新党に移っているのですが、相次ぐ台風の襲来で地元が大打撃を受けると、復興のために奔走するものの「弱小政党ではなにもできない」という現実に直面します。
次の総選挙には出ないと決意した鈴木でしたが、同郷の代議士の引き合いで吉田茂が率いていた民主自由党に転籍。以後、保守政治家として活動していくことになります。
首相退任後も長く宏池会(現岸田派)の会長を務め、影響力を残しました。首相在任記録は864日間で、首相在任中に大型国政選挙を経験していない首相としては日本国憲法下では最長記録となっています。
バブル経済崩壊、湾岸戦争と激動期に首相を務める
海部俊樹(首相在任期間:1989年8月10日〜1991年11月5日)
初の昭和生まれの総理大臣となった海部俊樹氏は、平成初の総理大臣でもありました。
平成元年8月10日に首相となった海部氏は、その清潔感あふれる洗練されたイメージが大きな武器でした。
というのも、先任の総理だった宇野宗佑氏は女性問題であっという間に辞任、その前の竹下登氏はリクルート問題で大騒動となり退任と、相次いで、スキャンダルで倒れており、世論が自民党を見る目は大変厳しくなっていました。
そこに現れたのが、当時57歳という若さと清新なイメージを持った海部氏でした。
海部氏は昭和6年に愛知県で生まれています。16歳で政治家となる決心をし、大学では雄弁会に所属しています。議員の秘書を経て29歳で衆議院初当選を果たすと、三木武夫とその夫人に可愛がられ、1974年(昭和49年)に三木内閣で内閣官房副長官となっています。以後、福田内閣や中曽根内閣でも大臣を務めたのち、1989年(平成元年)に第76代内閣総理大臣となりました。
この時期、日本は大きな時代の曲がり角を迎えていました。
80年代に「ジャパン・アズ・ナンバーワン」といわれ、向かうところ敵なしだった日本経済がバブル崩壊とともに終りを迎え、現在まで続く長い不調を迎えるその入口となった時代です。
海外情勢にも大きな影響を受けました。就任間もない11月9日にはベルリンの壁が崩壊。翌1990年(平成2年)8月にはイラクがクウェートに侵攻し、1991年(平成3年)1月には湾岸戦争へと発展しています。
国内外で難問が山積しながらも「精いっぱい、力いっぱい、一生懸命」と繰り返し国民に向けて語り続けた海部内閣の支持率は50%後半から60%台と高く、多くの国民は海部氏の人柄に親しみを感じていたことがわかります。