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政治ドットコムトピックス「話が長い」どころじゃない? 昭和の政治家の暴言(昭和20〜40年代編)

「話が長い」どころじゃない? 昭和の政治家の暴言(昭和20〜40年代編)

投稿日2021.3.25
最終更新日2021.03.25

コンプライアンスやハラスメントといった言葉のない時代、また、政治家の権力がいまよりも遥かに強かった時代、現在よりも強烈な「政治家の失言」がたびたび報じられました。
日本の憲政史に残る、政治家の失言をご紹介します。

「パン助、だまれ!」(1953年・昭和28年/有田二郎氏)

まず、「パン助」とはなにか。戦後、アメリカの進駐軍相手にしていた売春婦のことを指します。
昭和28年8月1日、左右両派の社会党(当時は社会党が2派に分かれていました)が、当時の衆院議長に対する不信任決議案を提出しました。
この採決に先立って、社会党両派から趣旨説明が行われ、続いて討論が行われる予定でした。
自由党の本田市朗氏が反対討論をするべく登壇しようとしたとき、右派社会党の堤ツルヨ議員が、「断末魔の自由党!」とやじを飛ばします。
このやじに激昂した自由党の有田二郎氏、大声で返します。
「パン助、だまれ!」
本会議場は騒然となりました。
椅子から立ち上がって怒鳴りつけたり、机を激しく叩いて抗議する社会党議員。
もはや収拾がつかない状態になったため、直ちに休憩が宣言されました。

混乱の収拾を待ち、23時半に再開された本会議。
その冒頭で有田氏から「女性を冒涜するがごとき誤解を招いたことは申し訳ありません」と謝罪の言葉が述べられたことで、一応のケリが付けられました。

「デモが騒がしいようですが、神宮球場は今日も満員です」(1960年・昭和35年/岸信介氏)

昭和35年当時、アメリカとの新安保条約を巡って国会で激論が交わされていました。
国民は反対デモを繰り返し、連日、国会に請願を繰り返す、全学連(学生によって結成された学生自治体の連合体)は国会突入を繰り返すなど、世情は騒然としていました。

デモ隊と警官隊が激突するなど日常茶飯事。そんな状況下、当時の岸信介首相は、昭和35年5月3日、伊勢神宮を参拝したあとの記者会見で次のように述べました。
「デモは国会周辺では騒がしいが、神宮球場は今日も満員だし、映画館や銀座なんかは普段と人出は変わらない。国民の不安が増しているとは思いません」

この国民をバカにしたような発言にマスコミは騒ぎ立てますが、当の岸氏は泰然自若。
なんとしてでも安保改定を成し遂げるのだという決意のもと、5月20日に無事、新安保条約は可決されることになります。

「爆撃される方にも責任がある」(1965年・昭和40年/佐藤栄作首相)

この発言も、現代なら「いじめられている方にも問題があるというのか!」と、大騒動へと発展すること不可避といえるでしょう。
この発言は、1975年まで続いたベトナム戦争に関するものです。

昭和40年5月31日、衆院予算委員会で、当時の佐藤栄作首相は次のように語っています。
「ベトナム問題は1954年にジュネーブで会議が持たれ、一応の結論が出た。それによれば、北と南を17度線で区切って、両政権があることを認めたものだ。(中略)ところが、南ベトナムの内部において、国論がなかなか統一しない。そして、武力行動や破壊行動をやって、民族解放の目的を達しようとしている。ここに問題があるのだと思う」

南ベトナムによる民族解放運動を一方的に「悪いこと」と断じ、アメリカによる北爆を正当化する発言に野党は強く反発しましたが時間切れ。これ以上、議論が行われることはありませんでした。

「急行の1本や2本停車させても不思議はない」(1966年・昭和41年/荒船清十郎氏)

昭和41年9月3日、新聞各社は次のような内容を報じました。
「運輸大臣を務めている荒船清十郎氏が、自身の選挙区内にある高崎線の深谷駅に急行を停車させるよう、国鉄幹部に働きかけ、列車のダイヤを変更させていた」

実際に、その年の8月1日に運輸大臣に就任した荒船氏は、当時の国鉄常務理事を呼び出して深谷駅(埼玉県)に急行列車が停まるよう要請。
すでにダイヤの編成が終わっていた国鉄関東支社でしたが、大臣からの要請は断れずに急遽修正していました。

この報道を受けて矢面に立たされた荒船氏、つい本音が漏れてしまいます。
「急行の1本や2本停車させても不思議はないでしょう。私のいうことを国鉄がひとつくらい聞いてくれたっていいじゃないか」
当然のことながら、荒船氏は野党から猛攻撃を受け、厳しく追求されます。

結局、8月1日に就任した運輸大臣も10月11日に「一世一代の不覚」との言葉を残して辞任しています。
ちなみに令和2年現在、深谷駅は「特別快速」「通勤快速」ともに停車する至便な駅に成長。「関東の駅百選」にも選ばれています。

「カドミウム汚染米は心意気で食べるべきだ」(1970年・昭和45年/荒木万寿夫氏)

1970年代、高度経済成長の波に乗り、国内が急激に発展していく一方で顕在化したのが公害問題でした。
工場の煙や排水、車の排気ガスなどが大気や水質を汚染。公害病などを生み、国民の健康に重大なダメージを与えるようになっていきます。
なかでも、亜鉛の精錬過程で排出される「カドミウム」に汚染された「カドミウム米」は深刻な社会問題を引き起こしました。
垂れ流されたカドミウムは稲などの農作物に吸収・蓄積されやすく、汚染された米を一定以上食べると、腎臓機能に障害を起こしたり、イタイイタイ病の原因となるなど、問題化していました。

昭和45年12月、当時の佐藤栄作内閣は「公害対策基本法改正法」「水質汚濁防止法」など、公害に関する14法を成立させ、本格的に公害対策に取り組む姿勢を見せました。
ところが、それからわずか1ヵ月。翌昭和46年1月6日に、当時の国家公安委員長だった荒木万寿夫氏が、地元の福岡県大牟田市で開いた講演会の新年会で、先の言葉を発し大騒動となります。

「公害はなくするようにしなければならないが、ジャーナリズムは今にもガスで死人が出るようににぎにぎしく取り上げる傾向がある。(中略)大牟田のカドミウム問題はよく知らないが、何十年も食べていてどうもない。(中略)次第に改善されるわけだし、平気で食べてよいだろう。食べてやるという心意気が必要だ」

好意的に解釈すれば、地元大牟田市の農業従事者を励ます発言と取れなくもありませんが、「とはいっても、どうせお前は食わないだろう」「よく知らないくせに語るな」とのツッコミが殺到することは避けられず、実際にこの話を聞いた大牟田市民は「実情を無視した発言で許せない」とカンカンだったとのこと(当時の新聞報道より)。

荒木氏はその後、舌禍事件のあった昭和46年に勲一等旭日大綬章を受章。2年後の昭和48年に72歳で亡くなりました。

この記事の監修者
政治ドットコム 編集部
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