政治ドットコムトピックスタレント議員第1号は一体だれ?ー石田一松伝

タレント議員第1号は一体だれ?ー石田一松伝

投稿日2020.12.9
最終更新日2020.12.09
この記事の監修者
山口和史
20年にわたって法律、税務、経営等の業界専門誌の編集長を歴任。
2020年から政治ドットコムの理念「政治をもっと身近に。」を実現するため、編集長に就任。
独自の視点と切り口で、政治にまつわる最新情報を発信する。

俳優、芸人、スポーツ選手、アナウンサー……その知名度を活かして選挙を勝ち抜き、国政の場でその才を発揮する政治家が多く活躍を続けています。一般的に「タレント議員」と呼ばれる彼ら、その第1号はどのような人だったのでしょうか?

タレント議員第1号は吉本興業所属の芸人

これまで多くの「タレント議員」が誕生しています。俳優、歌手、お笑い芸人、作家、アナウンサー、スポーツ選手など、そのバックグラウンドはさまざまですが、その高い知名度を背景に選挙を勝ち抜き、国政の分野で活躍を続けています。
日本においてそのタレント議員の先駆けとなったのが、石田一松(いしだ・いちまつ/1902年〜1956年)と言われています。
広島県に生まれた石田氏は、上京後に法政大学に進学。学費を稼ぐために演歌師となり、バイオリンで自ら節を付けながら歌うスタイルで縁日を回るなどし、生計を立てました。
1920年から勉学と並行して芸能活動を続け、のちに自らの代表作となる「のんき節」はこの時期に生み出します。
大学卒業後の1930年には、前年に創設されたレコード会社「ポリドール」から、自ら作詞・作曲したコミックソング「酋長の娘」をリリース。これが約10万枚も売れる大ヒットとなります。
1892年にミクロネシアにあるトラック島に移り住み、その島の酋長の娘と結婚した実在の日本人を題材にしたこの曲は、戦後、ザ・ドリフターズによって「ドリフのラバさん」としてリメイクされ、こちらも多くの人々に愛されました。
1932年、吉本興業専属の芸人になると、「インテリ・時事小唄・法学士」をキャッチコピーとして舞台に上がり、バイオリンを片手に持ちネタだった「のんき節」を歌うスタイルで人気を博します。
「のんき節」では、庶民の目線で当時の軍部や政治権力、社会の矛盾を辛辣に批判しました。その姿勢は戦前・戦中の社会では厳しく当局から目をつけられ、たびたび出演停止の処分などを受けますが、観客である庶民からは圧倒的な人気を誇ったと言われています。
以後、舞台はもちろん、テレビ、ラジオ、映画と縦横無尽に活躍を続け、その名前は全国区で知られていくことになります。

そして迎えた1946年。第二次世界大戦を終え、初めて迎える衆議院議員総選挙に東京1区から立候補します。
「地盤とカバンは有りませんけど、看板だけなら日本中~ハハのんきだね~」と、自らの「のんき節」のネタを縦横無尽に織り交ぜる演説は、街頭の有権者たちに大ウケ。鳩山一郎、野坂参三、浅沼稲次郎といった錚々たる面々と同じ選挙区ながらも見事当選を果たします。
以後、衆議院議員選挙に連続4回当選。芸人活動と並行して国会議員として活動を続けます。
日米安保条約・対日平和条約の批准に反対したり、日本共産党所属議員だった川上貫一議員の除名決議おいても「国会での発言封じは民主主義の危機」と主張し反対票を投じるなど反骨精神は失わず、議員活動を続けますが、1953年のバカヤロー解散に伴う総選挙で落選。1955年の第27回衆議院議員総選挙も党の公認が取れず、無所属で出馬するも落選し、政治家としての活動は終わりを迎えました。
以後は芸人として舞台に立ち続けるも、生前多用していた覚醒剤(ヒロポン)の影響で健康が蝕まれ、1956年に胃がんでこの世を去っています。

※参考文献:「闘った『のんき節』タレント議員第一号・演歌師石田一松」水野喬著/文芸社刊