政治ドットコムトピックス政治家の「名言」〜伊藤博文

政治家の「名言」〜伊藤博文

投稿日2020.12.9
最終更新日2020.12.09
この記事の監修者
山口和史
20年にわたって法律、税務、経営等の業界専門誌の編集長を歴任。
2020年から政治ドットコムの理念「政治をもっと身近に。」を実現するため、編集長に就任。
独自の視点と切り口で、政治にまつわる最新情報を発信する。

日本を創り、日本を導いた偉大な政治家たち。彼らは歴史にその足跡だけではなく、多くの言葉も遺しています。その「言葉」はどのようなものなのか、どのような意味が含まれているのか、ともに考えるシリーズです。第1回目となる今回は、初代内閣総理大臣の伊藤博文の言葉を取り上げます。

「苟(いやしく)も天下に一事一物を成し遂げようとすれば、命懸けのことは始終ある。依頼心を起こしてはならぬ。自力でやれ」
ー初代内閣総理大臣伊藤博文が、次男眞一に与えた訓戒の一部

華美になびかず、野心のためには行わず

冒頭の言葉は、留学を控えた次男・眞一氏に与えた訓戒の一節です。
この言葉の前段では、こう語りかけています。
「お前に何でも俺の志を継げよと無理は言はぬ。持って生まれた天分ならば、たとえお前が乞食になったととて、俺は決して悲しまぬ。金持ちになったとて、喜びもせぬ」
1841年に現在の山口県に生まれた伊藤博文は、長じて吉田松陰に師事し、松下村塾に学びます。
それまで自他ともに「才子」と認められてきた伊藤も、松陰からは「才劣り、学幼し。しかし、性質は素直で華美になびかず、僕頗(すこぶ)る之を愛す」と評されました。
ただ、自ら漢詩に「天下と英雄眼中に在り」としたためているところからも、自らの才能にかなりの自信を持っていた伊藤は、後年、師匠であるはずの松陰について語ることは少なかったと言われています。
一方で、この松陰の言葉を裏付けるかのように、「如何に伊藤を攻撃する者でも、金銭に関して非難を加えた者は一人もない」(三浦梧楼)、「常に国家のために政治を行ふて、野心のために行はなかった」(大隈重信)と、死後も語り継がれているように、決して「華美になび」くことはありませんでした。

幕末から明治にかけて、まさに日本国家を作り出す担い手のひとりとして活動した伊藤は、長州藩の先輩である木戸孝允、薩摩閥の長である大久保利通、幕臣の傑物である岩倉具視など、藩幕の枠にとらわれず、歴史上の英雄たちから多くを学び、そして行動へと繋げていきました。坂本龍馬もそのひとりだったようです。

「坂本龍馬は壮年有志の一個の傑出物であって、彼方へ説き、此方へ説きして、何処へ行っても容れられる人間であった」

これは後年、伊藤が龍馬について語った一節です。
自らの才をもって、自ら足を運び、自ら「これ」と思った人物に説いてまわって描いた政治を実現させる。伊藤にとって、龍馬の姿は政治家として理想の姿と映っていたのかもしれません。

伊藤は初代内閣総理大臣に就任後、大日本帝国憲法の制定や枢密院議長、貴族院議長といった要職を歴任し、日清戦争、日露戦争といった国難にも挑み続けていきます。
1905年、第二次日韓協約によって韓国統監府が設置されると、伊藤は初代統監に任じられます。当時すでに64歳でした。

それから4年後の1909年春、伊藤はこう演説します。
「日韓両国民は宜しく共心同力国歩の発展を図るべし。此希望にして成就するあらば、予は死するも瞑目(めいもく)すべし」
まるで、すでに自らの死を予期していたかのように、この演説から約半年後の同年10月、伊藤は満州・ハルビンで暗殺されます。
伊藤を射殺したとされるのは、朝鮮出身の安重根。そのことを聞いた伊藤は「馬鹿なやつぢや」とつぶやいたと伝えられています。

死後に寄せられた伊藤への追悼文には、このようなものがありました。
「公(注:伊藤を指す)は朝鮮を治めるには朝鮮人を心服せしめるを以て最善の方策と信じて終始一貫やつて行つた。故に力めて(つとめて)朝鮮の為を図つた。朝鮮の福利を増進せしむると云ふことに全力を傾注したと云つてもよい。少なくも公の政策には、疑もなく排日一派を除く外は皆信頼したと云つて宜からう。公は君国の為に己を虚しうして尽くすと云ふ性格の人であった」(鳩山和夫)

安重根はのちに「民族の英雄」と評されました。日韓の共生に尽くした伊藤の命を、暗殺という卑劣な手段で奪ったと考えた場合、果たしてその評価は、妥当なものなのでしょうか。その問いへの答えは後の歴史が下すことでしょう。

参考文献:「次代への名言ー政治家篇」関厚夫著/藤原書店刊

プロフィール

伊藤博文(1841年10月16日〜1909年10月26日)
父林十蔵は萩藩の下級藩士の養子となり、以後伊藤姓を名乗る。吉田松陰に師事し、松下村塾に学ぶ。木戸孝允、高杉晋作らと共に尊皇攘夷運動に挺身。明治4年(1871)岩倉遣外使節団に特命副使として参加。大久保利通の信頼を得る。大久保の死後内務卿を継ぎ、政府の中心的位置を確保。15年憲法調査のため渡欧。18年内閣制度を創設し初代内閣総理大臣に就任。大日本帝国憲法の制定を指導。枢密院議長、貴族院議長、首相(4度)、初代韓国統監等を歴任。42年ハルビン駅頭で韓国の独立運動家安重根により暗殺される。