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ヤクザの大親分が国会議員に 任侠議員・吉田磯吉伝

投稿日2020.12.9
最終更新日2020.12.09

現在、現職の国会議員が暴力団と繋がっている、そんなことが表沙汰になれば一大スキャンダルになるのは間違いありません。
しかし、日本の議会史を振り返ると、暴力団と付き合いがあったどころか、本職のヤクザの大親分が国会議員として活動していたことがありました。
彼の名前は吉田磯吉。近代ヤクザの祖のひとりと言われる北九州の大親分であると同時に、大正から昭和まで20年弱にわたって衆議院議員を務めた国会議員でもありました。

船頭から北九州を治めるヤクザの親分に

まず、吉田磯吉が議員として活躍していた当時、いわゆる「ヤクザ」「暴力団」を見る目は現在とかなり異なっていたことを念頭に置く必要があります。
戦前の日本は急激な経済発展とともに、大規模な人口移動が起きていました。
職を求めた人々は、地方から都市部や炭鉱地などに一気に流入。人が集まった地域は、急激に都市化していきます。
すると、人口の急増に伴って、経済が発展するのは良いのですが、それと同時にトラブルも頻発するようになります。
古くからの住民と新参者との争いが、流血沙汰へと発展することも珍しくありませんでした。
これらのトラブルを解決・仲裁する存在として、「地域のボス」が生まれていきます。
地域のボスたちは、暴力と金の力で荒くれ者たちを抑え込んでいきます。
そうしているうちに、ボスのもとには何百、何千という子分が集まるようになり、やがて一家を構えるようになります。
たしかに素性は怪しく、行動も荒ぶっているのですが、すべてが悪と言い切ることもできない、地域にとっての必要悪といえる存在だったと言えるかもしれません。
現在では「暴力団」と呼ばれるこのような集団も、当時は地域からはある程度容認されていました。

1867年(慶応3年)に生まれた吉田は筑豊炭鉱の近くを流れる船頭として活動していた頃にこの時代を迎えます。持ち前の才覚と体格を活かして地域の荒くれ者たちを束ねる存在となった吉田は、1900年(明治33年)頃には北九州一帯の炭鉱関係者を従える存在にまで上り詰めます。
その後、全国各地の同様の親分たちと繋がりを持った吉田は、社会に対して大きな影響を及ぼすようになります。

裏世界のトラブルを収め一躍名を挙げる

全国に吉田の名前を知らしめるきっかけとなった事件があります。
1909年(明治42年)、大阪相撲協会に所属していた大関の放駒(はなれごま)が、東京大相撲に移籍すると突如発表します。
当時の大相撲は東京と大阪、ふたつの団体に分かれて活動していました。
力士はそれぞれの団体への所属が義務付けられ、勝手な移籍は認められていませんでした。
にもかかわらず、大阪相撲協会の待遇に不満を抱えていた放駒は、そのタブーを犯して移籍を決意、このことが東京・大阪を股にかけた大問題へと発展します。

当時、大相撲といえば人気ナンバーワンのスポーツ。新聞各紙は一大スキャンダルとして連日報道します。
さらに水面下では、大相撲興行を握っていたヤクザの親分たちが互いの意地やプライドを張り合いだしたために、問題はこじれにこじれました。

そんな中、弱りきった関係者が吉田の元を訪れ、仲裁を依頼します。
この事件に裏で関与している地域のボスたちの顔を上手に立てた上で、問題を平和裏に解決して欲しいというお願いです。
依頼を受けた吉田は、放駒の移籍を渋っている大阪の顔役の元へと足を運びます。
たまたま、この顔役は吉田と五分の盃を交わした仲(対等の兄弟分ということ)だったため、吉田の説得を聞き入れ、放駒の東京への移籍を認めました。
この仲裁劇は新聞各社で報道され、吉田の名前は一気に全国へと広がります。

「筋が通らないことは許さない」仁義を守るヤクザ議員

その後、吉田はストの調停役として旭硝子協議、三井炭鉱の長崎給仕紛争など多くの争議を調停し、「吉田に頼めばどんなに難しい問題でも解決する」と称されるようになります。
当然、解決のためにはお行儀の良い方法だけを取っていたわけではなく、子分たちを使って暴力行為に訴えたり、示威行動を繰り返したりと、その手段は多岐にわたります。

とはいえ、着実に社会的な影響力を強めていった吉田は、1915年(大正4年)の第12回衆議院議員選挙に満を持して立候補、見事福岡県トップの得票数を得て当選します。
以後、1932年(昭和7年)に引退するまで、国会議員として活動を続けています。

ヤクザの親分上がりの国会議員である吉田らしいエピソードとして、次のようなものがあります。
1921年(大正10年)、「郵政会社事件」での活躍です。
この事件は当時、権勢を誇っていた政友会が、その利権拡大を狙って日本郵船の乗っ取りを企てたものの、計画が露見し失敗した一大スキャンダルです。
政友会が目論んでいた乗っ取り策は、日本郵船の株主総会に右翼団体の構成者を送り込み、混乱を起こさせたスキに行うというものでした。

この計画を知った吉田は阻止に向けて立ち上がります。
吉田は百数十人の子分たちを集めると、総会が開かれる会場付近に待機させます。
会場入口をガッチリと守り、右翼団体を入れさせるまいと彼らは踏ん張る彼ら。入れさせろと暴れる構成員たち。
刻一刻と過ぎる時間。
最終的に右翼団体の構成員たちは、吉田の子分の迫力に負けて会場に入ることができず、乗っ取り計画はギリギリで回避されました。

吉田磯吉の子である吉田敬太郎が著した「汝復讐するなかれ」(いのちの言葉社刊)に、当時の吉田の言葉が掲載されています。
「私は郵船に恩も恨みもないが、暴力で不当な野心を遂げようとする者があると聞いては黙っていられない。かかる問題は一会社の問題じゃない。国を危うくするもととなる。いわんや郵船会社は単なる営利会社とは性質が違う。これに対して警察当局もいっこうに手を出さんようだから、私は最後の決意をしたのです。数字で争うべきを暴力で争うとは何事かい」

吉田は約20年にわたって政治家として活動した後、1936年(昭和11年)に70歳でこの世を去りました。
地元・福岡で行われた吉田の葬儀には、冷たい雪が降るなか、約2万人もの人々が、故人を偲んで焼香に訪れたと言われています。

この記事の監修者
政治ドットコム 編集部
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