日本人のモラル低下も問題に
1993年の夏は記録的な冷夏となりました。
梅雨前線が長期間日本に停滞し、一旦は例年通りに梅雨明け宣言が発表されたものの、8月下旬に一転、気象庁は沖縄県以外の梅雨明け宣言を取り消しするという異例の事態となりました。
1993年7月の東京の天気を振り返ってみると、全31日のうち「晴れ」とされたのはわずか8日。約半分となる14日間にわたって雨が振り続け、7月にもかかわらず最高気温が30度を超えた日数も4日しかないという、これを見るだけでどれだけの異常気象だったのかお分かりになるかと思います。
この日照不足と長雨による影響で、日本全国の米の作況指数は「著しい不良」の水準を大きく下回る74を記録。この作況指数74という数字は、昭和に入って以降の作況指数では、敗戦の年の1945年の67を除いて最低の数字です。
この冷夏によって、日本全国で日本米が不足する事態に陥りました。
結果的に、1993年の米収穫高は前年を274万トン下回る783万トン。備蓄米も23万トンしかなかったことから、米の安定供給するために海外から約259万トンを緊急輸入することになります。
しかし、この海外米がさらなる混乱を生み出す結果となります。
1993年11月18日の午前9時過ぎ、タイ産の加工用米7000トンを積んだ「タンジュン・ピナン号」が横浜港に到着します。この船は緊急輸入の第1陣で、日本においては1984年に韓国米を輸入して以来、9年ぶりとなる本格的な外国産米の輸入となりました。
こ
のいわゆる「タイ米」は、日本人が主食とするジャポニカ米とは種類が異なり、一粒が細長く炊いてもパラパラとしていることが特徴でした。
しかし、その特徴を知らない日本人は、いつものジャポニカ米と同じように米をとぎ、同じ水量で炊き、同じように茶碗によそって食べようとしてしまったために、「タイ米は不味い」という印象が広く行き渡ってしまう不幸な結果を招きます。パラパラした炊きあがりは、「パサパサ」と受け取られ、独特の芳香は「くさい」と感じられてしまった理由、それはタイ米に適した調理方法を多くの日本人が知らないことでした。
急遽、マスメディアはタイ米を美味しく食べるための本来の調理法や、日本米と同様の感覚で食べられるように工夫する調理法などが特集しましたが、時既に遅し。需要を回復するに至りません。
結果、市場にはジャポニカ米との抱き合わせ販売や、ジャポニカ米とタイ米を混合した「ブレンド米」などが流通することになります。
ところが、ジャポニカ米とタイ米との「ブレンド米」は、それぞれ適切な炊き方が異なるにもかかわらず、同じ水量・同じ炊き方で属する結果となるために、まるでご飯に生米が混じったような食感になり、かえって不興を招きます。
また「輸入したタイ米に動物の屍骸が混ざっていた」「タイ米の米袋から、錆びた釘が発見された」といったデマも含めた報道がなされると、より一層、日本国内でのタイ米の不人気は拡大していきます。
当時、タイ国内では日本への米輸出の影響で米価格が高騰しており、その結果、餓死者が出るほどの混乱が生じていたにもかかわらず、このタイ米の不人気や、米不足収束後、大量に売れ残ったタイ米が不法投棄されたり家畜の飼料にされたりしていることを知り、悲しむ声も挙がりました。
国内では、市民による国産米の買い占めや、業者による売り渋りが多発。混乱は続いていきました。
事態が収束するのは1994年の6月を迎えてから。
沖縄県産の早場米が出回るようになると市民は落ち着きを取り戻し、さらに夏場は猛暑となり前年から一転、全国的に豊作が伝えられ米騒動は完全に収束します。
国内での混乱はこれで一段落となりましたが、タイ米を巡る混乱は遺恨を残し、同じ1993年のナタ・デ・ココブームや、バブル景気におけるボジョレー・ヌーヴォーブームなどと並んで、日本の食糧政策や国際的なモラルに批判が集まる結果となりました。