政治ドットコムトピックス自民党を創った男・三木武吉氏の「ヤジ対応能力」

自民党を創った男・三木武吉氏の「ヤジ対応能力」

投稿日2020.5.22
最終更新日2020.05.22

1955年に自由党と民主党の保守合同を実現させ「自民党を創った男」として知られる三木武吉氏は、戦後直後の総選挙時の立会演説会において、当意即妙の切り返しで危機を脱し、有権者たちの爆笑と拍手をかっさらっています。

自民党を創った男の「殺し文句」

三木武吉氏は「自由民主党を創った男」として知られています。
1945年の終戦から約10年の間、保守・革新ともに小さな政党に分かれて離合集散を繰り返していました。
占領下、GHQの指令によって無産政党(日本社会党や日本共産党など)が合法化される一方で、保守政党が乱立する事態が発生したのが原因です。
そのため政局は安定せず、多党・不安定な時代が続きました。
そんななか、日本社会党は1951年に講和条約と日米安全保障条約に対する態度の違いから、「右派社会党」と「左派社会党」に分裂。さらに混迷の度合いを深めていきます。

事態が変わるのは1955年2月の衆議院議員総選挙。この分裂した左右両社会党の合計議席が156に達し、第一党の日本民主党の185に迫る勢力となったことに保守陣営は大慌て。4月12日、民主党の総務会長を務めていた三木氏は、保守合同を呼びかける談話を発表します。

合同の機運が盛り上がる中、もう一方の保守の旗手、自由党も協議に応じる構えを見せます。
日本民主党からは三木氏、自由党からは大野伴睦氏が交渉役となり、合同に向けての調整が始まります。
しかし、この両者は大正時代から続く「不倶戴天の敵」。交渉は難航が予想されました。

この難局を乗り切り、合同を成し遂げたのが、三木氏の言葉でした。
三木氏は大野氏に「救国の大業を成就したい」と、大野氏との2人だけの会談で口説き落とし、保守合同が実現。自由民主党が誕生します。
以後、長く与党第1党を自由民主党が占めて政権を担当し、野党第1党は日本社会党が占める「55年体制」が続きます。

当意即妙の切り返しで爆笑をさらう

時をさかのぼって1946年4月、戦後初の衆議院議員総選挙の際、三木氏は選挙区であった旧香川一区かで立会演説会に臨みます。
すると、三木氏よりも先に演説を行った福家俊一氏が、じっと三木氏を見つめてこのように攻撃しました。「ある有力候補者のごときは、なんと妾を4人も連れている」。

演説を終え、したり顔で演題を下りた福家氏の後に続いて、演題に上った三木氏はこう反論します。
「私の前に立った吹けば飛ぶような候補者が『ある有力候補』と申したのは、不肖この三木武吉であります。なるべくなら、皆さんの貴重な一票は、先の無力候補に投ぜられるより、有力候補たる私に、と三木は考えます」

この、「吹けば飛ぶような」という言い回しは、三木氏を攻撃した福家俊一氏(ふけ・としいち)に掛かっています。さらに反論は続きます。

「なお、正確を期さねばならんので、先の無力候補の数字的間違いを、ここで訂正しておきます。私には、妾が4人あると申されたが、事実は5人であります。5を4と数えるごときは、小学校1年生といえども、『恥』とすべきであります。1つ数え損なったとみえます。ただし、5人の女性たちは、今日ではいずれも老来廃馬と相成り、役には立ちませぬ。が、これを捨て去るごとき不人情は、三木武吉にはできませんから、みな今日も養っております」

この言葉に嘘はありませんでした。
三木氏は、一度、縁ができた女性は最後まで面倒を見続けていたのです。
三木氏は妻のカネ子と結婚した翌年、神楽坂の料亭「松ヶ枝」の女将を務めていた加藤たけと出会います。
ほかにも、赤坂の芸者出身の布川ツル、元日活女優の小杉絹子、カネ子夫人を10年以上にわたって看病し続けた蓮井トヨにまで手を出す自由ぶり。カネ子夫人の胸中を思うと胸が痛みます。

しかしそれもまた他人が勝手に思うことなのかもしれません。
戦争末期の1944年、三木氏はカネ子夫人も含めて、縁のできた女性全員とともに、郷里である高松へと疎開のために呼び寄せます。
その噂は周囲にあっと言う間に広がり、戦後、立会演説会での攻撃の的となったのです。

この他にも三木氏は「およそ大政治家たらんものはだ。いっぺんに数人の女を、喧嘩もさせず嫉妬もさせずに、操っていくぐらい腕がなくてはならん」と発言したり、その一方で「本当に愛情を持ち続けているのは、やはり女房のかね子だ。ほかの女は好きになったというだけだ」と、カネ子夫人を持ち上げたりもしていますが、現在、このような発言をすれば、すぐに猛バッシングに見舞われるのは必定でしょう。
政治家に問われる資質も、時代とともに変化しているのかもしれません。