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政治ドットコムトピックス明治の人が見た「天下の義人・田中正造」

明治の人が見た「天下の義人・田中正造」

投稿日2020.12.9
最終更新日2020.12.09

田中正造といえば足尾鉱毒事件での活躍が広く知られています。第1回衆議院議員総選挙に当選し、国会議員となってから、私財を投じて足尾鉱毒事件に関わり続けました。明治時代からその苛烈な活動と篤実な人柄は知られ、国民的な人気を誇ります。ここでは、明治時代に書かれた文献から、田中正造の知られざるエピソードをご紹介します。

「嫁さんには早く死んでほしい」と語った田中の真意

古河財閥が経営する足尾銅山での掘削作業が原因で鉱毒公害が発生。近辺の山の木が枯れ禿山となる、木を失った山々が土砂災害を起こす、川へと流れ込んだ鉱毒によって魚が大量死する、洪水によって拡散した鉱毒が田畑に流入し作物を全滅させるなど、長年にわたって現地民を悩ませます。
この鉱毒事件、初めて地元紙によって実態が報じられたのは1885(明治18)年。そこから長い戦いは続き、初めて古河鉱業側が責任を認めて調停が成立したのは1974(昭和49)年まで待たなければなりませんでした。
「100年公害」と呼ばれた悪影響は現在でも見られ、2011(平成23)年に発生した東日本大震災の際には、渡良瀬川下流から基準値を超える鉛が検出されています。
この足尾鉱毒事件に生涯をかけて戦ったのが、第1回衆議院議員総選挙に栃木3区から出馬し当選した、田中正造でした。
議員となってからは、農民たちに寄り添い鉱山への反対運動を続けると同時に、議会でも足尾鉱毒事件を頻繁に取り上げ、国家としての対応を訴え続けました。
1901(明治34)年には帝国議会開院式から帰る途中の明治天皇に足尾鉱毒事件について直訴し、大騒動を巻き起こしてもいます。
舌鋒鋭く、類まれな行動力を有した田中は、当時の国民から絶大な信頼を集めていました。

天皇への直訴事件を起こした翌年には「田中正造奇行談」(岩崎徂堂著)なる書物も発行されています。
「奇行談」と題されていますが、本書では田中の実直な人柄を表したエピソードを豊富に紹介。現在に、その人柄を伝えています。

田中は地元の地主の家に生まれています。
生涯清貧として知られましたが、元々はそれなりの資産家だったようです。
「翁(田中のこと)が県会議長になった当座は財産がまだ3〜4万円(現在の貨幣価値で約1億1千万円)もあったのだが(中略)三島通庸の虐政に抵抗するがために、その運動費として累代の田畑をことごとく売り飛ばしてしまって、わずか家屋敷しか残らなかった」(「田中正造奇行談」)と伝えています。

その後、1890(明治23)年に行われた第1回衆議院議員総選挙に打って出て、国会議員となる田中ですが、この選挙の際にも56円60銭(現在の貨幣価値で約21万円)を納税していると「帝国議会代議士名鑑」に掲載されています。
この当時、被選挙権を得るために必要な納税額は15円。先祖代々の資産がこの段階でもそれなりに残っていたことが分かります。

足尾鉱毒事件を手掛けるにあたってその資産を惜しみなくつぎ込んだのは事実のようで、当時から田中の貧しさは知れ渡っていたようです。
あるとき、田中が地元へ帰ろうとするも電車賃がない。鉱毒事件の支援者のところへ行ってお金を貸してもらおうとするも、彼らもない。
田中は笑って「ならば駅に行って都合しよう」と言うので、訝しく思って事務員が付いていくと、「駅の待合室に座っていれば、ひとりやふたり知っている人がやってくる。それを捕まえて旅費にすればいい」と語ったと「田中正造奇行談」にあります。

足尾鉱毒事件を手掛け始めたころ、その元凶であった古河鉱業から買収の使者が来たこともあったようです。
古河側は「30万円(約11億円)差し上げるから運動を止めてくれ」と申し出ますが、田中は顔を真赤にして激怒し「田中は銭金で動くような男ではない」と怒鳴り散らしたといいます。

それでもなお、田中は自ら辞職するまで国会議員に当選を続けます。
「田中正造奇行談」には「運動費はおろか実際を調べてみれば、被選挙権を持っているかどうかもおぼつかない」、つまり、選挙に出るために納税してはいるけれども、資産は本当にないと記しています。ならば、選挙資金はどうしていたのか。
どうやら、選挙民から運動して金を集めて資金としていたようです。
田中の徳望がどれほど知れ渡っていたか、伺いしれます。

とはいえ、足尾鉱毒事件を手掛けるにあたっては、喉から手が出るほど資金は欲しかったろうと思います。それでも「金をよこせ」とは決して言いませんでした。
ある年、国会議員の給料を年間800円(約300万円)から2000円(約700万円)に増額する議案が上がりました。
議員たちは異口同音に賛成するなか、反対したのは田中でした。
「日清戦争以降、日本は貧しくなった。農家は金もないところに税金も上がり、これ以上は払えないと泣いている。その農民から選ばれた代議士が、『給料が少ないから増やす』とはあんまりな話だ。オレは反対する」
しかし多勢に無勢。この案は通ってしまいます。
やがて実施の日が来ると、田中は全額辞退しましたが、田中とともに反対した議員は誰一人返還するものはいませんでした。

自ら信じた正義のため、金銭はもとよりすべてを投げ売って戦った田中でしたが、それだけの活動を行うのに必要な人徳、そして人を引きつける魅力がありました。
あるとき、客人に向かって田中はこう話しだしました。
「オレが残念なことはふたつある。鉱毒問題が決着しないことと、嫁さんがさっさと死んでくれないことだ」
鉱毒問題は分かるが、奥さんに早く死んでくれとはどういうことか、ひどい話ではないかと聞くと、
「オレが生きている間に死んでくれれば葬式を出してやることもできる。だけど、もしオレが死んだあとでは、(金も資産もない)嫁さんにかまってくれる人など誰もいないだろう」
と話すと、両目から大粒の涙を流したと「田中正造奇行談」は伝えています。

※参考資料:「田中正造奇行談」岩崎徂堂著(明治35年刊行)

この記事の監修者
政治ドットコム 編集部
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