政治ドットコムトピックス明治から昭和初期の名物国会議員たち

明治から昭和初期の名物国会議員たち

投稿日2020.6.18
最終更新日2020.07.07

思想、哲学、ルックス、言動など、強烈な個性を持つ国会議員たち。そんな彼らを遠慮会釈なくバッサリと評論したのが昭和11年(1936年)に昭和初期の政治評論家千田理示造氏が著した「議会名物男 初期議会から現在まで」です。ここには、名物議長から名物議員、果ては見た目だけの空っぽ議員まで、すべて名指しで論じられています。

初期議会の議員たちの息吹が伝わるエピソード

明治25年(1892年)第2回総選挙に当選して衆議院議長となった星亨は、「ひとたび議長席に着くや、いかなる難問題にあってもびくともしない。300人の代議士を威圧し、これを操縦すること、まるで将棋の駒を弄するごとくであった」と評しています。
また、法律研究のためイギリスに渡り、日本人初の法廷弁護士資格となった星の法律知識は当然一目置かれていたようで、「豊富な法律上の知識と、まれに見る勉強心とで、書記官長、書記官を始め、属官、雇等、すべてを集めて議論を練り、然る後に、自家の意見を定めるのを例としていた。とにかく、議長としては傑出せる一人であった」と、絶賛しています。

大正12年(1923年)に衆議院議長に就任した粕谷義三も、名議長として広く知られました。
議論がヒートアップすると、蜂の巣をつついたような大騒ぎになるのは、いまも昔も変わらないこと。粕谷氏は、議場がひっくり返るような騒ぎとなったときも、穏やかに柔らかくその場を収めると、議論はピタリと静粛に返っていったと伝えられています。その理由について、粕谷氏の温厚な素質と清い人格との反映によるものとこちらも絶賛しています。
粕谷氏は、議会に出るたびに必ず「本日の議場が静粛でありますよう、神の御加護を祈り上げます」と手を合わせてから議長席に着いていました。いかな名議長といえどもスーパーマンではなく、人の子だったことが伺いしれます。

一方で、「見掛けだけの空っぽ議員」と手厳しく非難されている議員もいます。
現在「ハイカラ」という言葉にネガティブな印象はそれほどありませんが、「議会名物男」が執筆された昭和11年当時は、「学問よりもネクタイの結び方ばかりを気にするキザな連中」「吹けば飛ぶようなつまらない男」といった意味が多分に含まれていたようです。
当時、「三大ハイカラ議員」と名指しされてしまったのは、望月小太郎氏、竹越與三郎氏、松本君平氏。
ロンドンに留学した望月氏とアメリカに留学した松本氏が「外国かぶれしたのは、やむを得ない事情もある」(「議会名物男」より)と、若干、筆も柔らかい一方、竹越氏に関しては「キリスト教の洗礼を受けて、なんでもかんでも外国人のすることは偉いように考えた。いわば、付け焼き刃である」と、めった切りです。
そして、三氏を挙げて「日本精神と相容れなかったものか、議員としては大陣笠にも慣れず、碌々として終わった」とバッサリ切り捨てています。

「三大のっぽ」「三大悪声」議員もそれぞれ紹介されています。
臼井哲夫氏、野田卯太郎氏、征矢野半弥氏はそれぞれ身長6尺(約180センチ)以上あったとのこと。昭和25年の日本人成人男性の平均身長が161.5センチですから、当時、群を抜いて背が高かったことが分かります。
神鞭知常氏、花井卓蔵氏、武田貞之助氏は、それぞれ「声が悪い」と、如何ともし難い部分を指摘されています。
特に武田氏にいたっては、「滅多に類のない頓狂声で、奇声というよりむしろ怪声というべきであった」と評されており、ここまで言われると、一度聞いてみたいという思いに駆られます。

現在でも、クチの悪いマスコミは議員の漢字の読み間違えなどを面白おかしく取り上げますが、明治〜昭和初期でも同様だったようです。
明治時代、農家を営んでいた人々が多く議員となりました。彼らは「百姓議員」と呼ばれ、若干の軽侮の対象でもあったようです。
「これらの議員の教育程度は今日(※昭和初期)の議員などから見れば、比較にもならぬほどの隔たりがあった」とされ、例として長谷川泰氏が「矛盾」をホコトンと読んだ、重岡薫五郎氏が「天皇」をテンコウと読んだ、小畑岩次郎氏が「手段」をテダンと読んだと、あげつらっています。
とはいえ、これらは議論の内容とは無縁である上に、重岡氏にいたっては弁護士出身のインテリですから、単に言い間違えただけと思われ、いまも昔も、政治の本質を語るよりもその周辺をいじるほうが、一般市民は喜ぶのかと複雑な思いを抱かないでもありません。

いわゆる「癖」を持った国会議員もたくさんいたようです。
田口卯吉氏は、演説の最中にジャケットのポケットに入れたハンカチを出し入れしたことで知られています。
演説の前に右手でポケットからハンカチを出して口を拭う。またポケットにしまう。演説が激しくなるたびにこの出し入れが激しくなり、出して拭ってまたしまってと繰り返したそうです。
島田三郎氏は、なぜか演壇に上ると「チン」と毎回鼻をかんだと伝えています。演説が始まり、途中になるとまた「チン」とかむ。鼻炎など、鼻が悪かったのでしょうか。
高田早苗氏は、演説の途中で「クフン」と犬のような相槌を入れると評されています。
「ええ……(クフン)、諸君……(クフン)、この……(クフン)」といったように、時々鼻から風を出し、常に鼻の掃除をしているようだったと伝えています

国会議員のあだ名も百花繚乱でした。
井上角五郎氏は、ひどいあばた顔で知られていましたが、その雄弁もまた素晴らしく、将軍の価値があるとのことで、両者を合わせて「蟹甲将軍」と称されました。現在では当然、身体的特徴をあだ名にするなど考えられませんが、当時は「天然痘が流行しても、家の入口に『井上角五郎様御宿』と書いた紙を貼れば、天然痘除けになる」と評判になるほどの名物議員でした。
容姿端麗で貴族の雰囲気をまとっていた、武富時敏氏は、「紅木屋侯爵」とあだ名されました。その理由は、当時東京都中央区京橋にあった旅館、紅木屋を定宿としていたから。読売新聞の記者が紙上で書いたのが始まりとされます。
鈴木萬次郎氏は「ハイスベリー」と呼ばれていたそうです。医師出身の国会議員だったことから、ほかにも「ドクトル」とも呼ばれていましたが、この「ハイスベリー」は、若い頃から毛髪が不自由だった鈴木氏を指し、「蝿(ハイ)が止まってもスベるだろう」ということから、蝿が滑る=ハイスベリーとなったと伝えられています。

※参考資料」「議会名物男 初期議会から現在まで」千田理示造著(昭和11年発行)

名議長として知られた星亨

温厚な人柄で知られた名議長、粕谷義三氏

天然痘よけのまじないまで広まった井上角五郎氏

容姿端麗で知られた武富時敏氏