過去にとらわれず、自然に身を任せた晩年の大隈
本書「六十三大家生活法」が出版されたのは1919年(大正8年)。このとき、大隈重信は80歳を迎えています。
取材を受けたのも、2度目の登板となった総理大臣の役目を終えて無事、寺内正毅へと引き継ぎ、悠々自適の生活を送っていた頃と考えて良いでしょう。
本書の中で、大隈は「125歳主義」を唱えています。
「人間はそもそも、125歳まで生きる原則を持っている。『長寿』というのは、125歳より多く生きた人を指すものだ」、それが当時の大隈の考え方だったようです。
昭和後期から現在に至って、人生100年時代と呼ばれるようになりましたが、現在から100年以上も前に、大隈は同様の主張をしていたことがわかります。
125歳以上生きることを目指した大隈は、どのような生活をしていたのでしょうか。
取材にあたって第一に「いたずらに過去を追想して、懐旧の情にふけることは、決して健全な思想ではない」と、過去にとらわれないことを挙げています。
過去は過去、愚痴をこぼさず、常に将来に向かって美しい希望を持って進んでいくのが最良とのこと。現代の思想に直せば「過去を思い悩んでストレスを抱えるな」といったところでしょうか。
生活自体は不規則だったようです。
「必要に応じてしたいことをする。何事も始めから決められ、束縛されるのは好まない」と、語っています。
とはいえ、早寝早起きは心がけていたようで、「夜が明ければ臥床を出る」「夏季はたいがい5時に離床する」とのこと。
また、夏と冬では夜明けの時間が異なりますが、「冬と夏とでは睡眠の時間がよほど違ってくる。冬は平均7時間、夏は5時間から6時間である」と、自然に任せていたようです。
上記の睡眠時間から想像するに、毎日23時には床に入っていたということでしょう。
大隈は趣味らしい趣味は持たなかったようです。
「世人はよく俳句を作るとか和歌を詠むとか謡曲ないし歌舞をするとか、種々雑多な芸をする人もあるが、我輩はまったくの芸無しである」。このことについても「生来の芸無しであるから仕方がない」と、なんら気にしていません。
むしろ、和歌や舞が達者なことが広く社会に知られていた、山縣有朋へのイヤミにも聞こえる物言いです。
囲碁は多少、打ったと語っています。
それでも「必ずしも好きというわけではない」「上手ではないが、普通の人並みには打つ」と語る一方で、「犬養毅、あれは上手い。ことに理論が得意だ」「我輩よりも三四目、上手であるかもしれぬ」と、評しています。
では、早寝早起きの生活を送りながらも、趣味を持たない大隈は、どのような毎日を過ごしていたのでしょうか。
当時の大隈は、新聞を読む、書籍を読む、面会をこなす、主にこの3つを中心に、日々の生活を送っていたようです。
「新聞紙は浮世の写真である。放火とか、泥棒とか、姦淫とか、心中とか若い男女が出奔するとか、銀行員が金を持って逃げるとか、毎日悪いこともたくさん出てくるが、また善いこともある。あたかも演劇を見るようである」と、語っています。
また、訪れる人々には分け隔てなく接していたようで、「百姓も来れば、商人も来る、貴族も来れば、平民も来る。学者も来れば宗教家も来る、文士も来れば書工もくる、政治家も来れば、軍人も来る(中略)。男も、女も、老爺も、婆さんも来る。おのおの、その人々に対して、平等無差別に話をすると、そこに無限の趣味がある」と話しています。
この文中の「趣味がある」は、趣がある、という意味合いでしょう。
夜半になれば眠り、夜明けとともに目を覚まし、朝は新聞に目を通す。
来客があれば分け隔てなく話を聞き、合間には本を読む。
そして時には、庭園を散歩したり、土いじりをしたりもしていたとの記述もあります。
大隈が、特に規則正しい生活を送るわけでもなく、のんびりと晩年を過ごしている様が伝わります。
「日一日、かくして暮らしていく。顧みれば、浮世は真に夢のごとし。茫としていつしかに消えてゆくのである。しかしながら、前途を眺むれば光明はそこに存するのである。人生の妙は、むしろここに存するのではあるまいか」
この言葉は、江戸時代末期から大正時代という歴史の荒波のなか、日本の舵取りを行った大隈が、晩年に達したひとつの境地といって良いかもしれません。
ストレスを減らし、自然に任せた生活を送ることで人間は125歳まで生きられると語っていた大隈ですが、インタビューの掲載された「六十三大家生活法」が発行された3年後の1922年に亡くなります。
死因は腹部の癌と萎縮腎と発表されました。享年85。
後日、日比谷公園で行なわれた国民葬には、30万人を超える市民が集ったと伝えられています。
参考資料:「六十三大家生活法」石上録之助著