政治ドットコムトピックス明治の元勲・山縣有朋の健康法は毎朝の「槍」訓練

明治の元勲・山縣有朋の健康法は毎朝の「槍」訓練

投稿日2020.7.14
最終更新日2020.07.14

1919年(大正8年)に刊行された「六十三大家生活法」(石上録之助著)には、その名の通り、63人の当時の名士が、その生活法や主義・主張をインタビュー形式で語り残しています。
今回ご紹介するのは、明治の元勲として知られる山縣有朋。陸軍の大重鎮として権勢を誇った山縣は、槍や馬の達人として知られたほか、和歌や舞などにも通じる粋人でした。

2.7メートルの槍を毎朝振り回す70代

第3代、第9代の総理大臣を務め、陸軍の重鎮として生涯強い影響力を持った山縣有朋は晩年、どのような生活を送っていたのか。
1919年に発行された「六十三大家生活法」(石上録之助著)で、側近に仕えた誰かと思われる人へのインタビューで、詳らかにされています。

晩年の山縣は規則正しい生活を送っていたようで、公務がなければ夏ならば5時、冬でも6時には起床。夜は22時には床についていたようです。
「お客があっても9時(21時)には帰ってもらって」と語っているところを見ると、早寝早起きにはこだわっていたようです。

朝起きると水を汲ませて、全身をくまなく拭き上げ、30分から1時間ほど、庭園を散歩しています。
朝8時に朝食を食べると、ひとりの従者も付けずに、ふたたび黙々と散歩をしています。
「夏の日ならば碁番目の白い薩摩上布かなにかに軽い鳥打帽子で、こっそりと裏門から出て行かれる」と、服装にまで言及しているところを見るに、着るものにもかなりのこだわりがあったことが伺われます。
散歩から帰ると、本を読んだり、来客応対をしたりといった時間を過ごしていたとのことです。

しかしこれは、80歳を過ぎた最晩年のこと。
70代までは、心身ともに厳しく鍛錬を続けていたようです。
それは槍と馬。
取材に応じた側近らしき人は「もし、公(※注:山縣のこと)に特別な健康法があるとすれば、実はこの馬と槍であろう」と語っています。

槍については、70代後半までは、毎日朝の時間に鍛錬を続けていました。
長さ1間半、1間=181.8センチですから、約2.7メートルの抜き身の槍を、70過ぎの老人が、毎朝振り回していたというのは、驚きです。
「持ったことのないものにはかなり重いのであるが、公がそれをしごかれる電光石火の早業は、実に鮮やかなものである」と、語られています。

山縣は当時、槍の名人と呼ばれた林友幸について修行し、免許皆伝を受けていることからも、相当の腕前だったことが想像されます。
「七十を過ぎて腰も曲がらぬすらりとした公が、甲斐甲斐しくタスキを掛け、えいやの声とともに突き出される白い穂先の神変自在なるを見るたびに、いささか武芸の心得あるものは、誠に手入ったものだと感嘆して眺めるのであった」との言葉からは、当時の山縣の姿が目に浮かぶようです。

その生涯には敵も多かった山縣ですが、自身に関しては文武両道を旨としていたのはたしかなようです。
山縣の和歌は当時から高い評価を受けており、「世間では山縣公といえば、和歌ばかりが取り上げられる。槍術にも優れていることが知られていないのは遺憾である」と、比較に挙げられるほどでした。

明治維新前、薩長同盟に向けての調整を続けていた頃、京都で山縣が付けていた手記があります(「葉桜日記」)。そのなかには、約百首の和歌と漢詩が書かれているのですが、幕末の批評家・ジャーナリストの福地桜痴は、「この詩には敬服感嘆のほかない」と評しています。
晩年、山縣の元を訪れた客との話が和歌に及ぶと、いささか得意の面持ちで、過去に詠んだ自身の作(「花とのみ見てやかへらん嵐山 松の木の間の紅葉そめしも」など)を詠み上げたりもしたと、「六十三大家生活法」に伝えられています。

生前、藩閥政治の最有力者のひとりとして権勢をふるった山縣ですが、私生活は質素に暮らしていたようです。
衣服は質素な絹物で、綿服は着ない。どんな場合でも、袴をだらしなく着流すことはせず、いつでもきちんと袴の裾を正しく合わせて、正しく座ると、評されています。

食事も、新鮮な魚か、肉のすり身を中心にした和食。
汁物の少ない、淡白な惣菜を好んだそうです。
お酒も、若い頃には飲んでいましたが、晩年は食事の際にワインを1杯口にする程度。来客があっても、自身は酒には手を出しませんでした。

「公には、松方候(注:松方正義)のように殖財の手腕もない代わりに、故井上公(注:井上馨)のように深く書画骨董を賞翫するのでもない」とした上で、「ただ、謡曲と仕舞いに至っては、おそらく元老中の一品、群を抜いて素人離れしている。(中略)仕舞いはさらに謡曲以上に堂に入っている」と語られています。

槍に通じ、馬術に通じ、さらには和歌、謡曲、舞に通じた山縣は、一級の多芸多才だったようです。
そんな山縣も病には勝てず、1922年2月1日に肺炎と気管支拡大症のため、83歳で亡くなりました。

参考資料:「六十三大家生活法」石上録之助著