議場はまるで小学校の討論会場?
高原篤行は、1908年(明治41年)に行なわれた第10回衆議院議員総選挙に鹿児島県郡部7区から出馬、見事当選を果たします。
高原が「鹿児島県九代議士感想録」への取材に応じたのは1912年(明治45年)。国会議員として初めて国政に携わった4年間について振り返っています。
この1908年から1912年までの4年間は、主に第2次桂太郎内閣の時代でした(1908年〜1911年)。
当時、勃興していた社会主義運動に対しての風紀引き締めが強く行なわれ、1910年(明治43年)5月25日には、明治天皇の暗殺を計画したとして、幸徳秋水ら全国の社会主義者や無政府主義者を逮捕される事件も起こっています。(大逆事件)。
また、同じ1910年には韓国併合を実現、さらには関税自主権を回復させるなど、日本の国際的な地位が向上した時代でもあります。
そんな激動の時代に、高原は国会へと足を運びます。
とはいえなんの実績もない新人議員。自身でも自覚していたようで、「槍持ちか旗持ちに過ぎない木っ端武者」と、評しています。
高原の見た議会は、想像とはかけ離れていたようです。
彼がまっさきに議会の印象として挙げているのは、「慎重、静粛を欠いている」「議院はいたずらに喧騒その度に過ぎ、ほとんど悪罵嘲弄の空気に満たされている」という点。
旧薩摩藩という、武士の風土が色濃く代々伝えられてきた地域で生まれ育った高原にとって、国の進路を定めるはずの議会がこのように大混乱していてよいのかと、疑問に感じたようです。
代議士になるまでは「一国の国士、一県の選良として議場に臨み、国民を代表して、独立府たる立法の院に列するのであるから、その態度は静粛で、紳士たる体面を持し(中略)世の儀表となり典型とならねばならぬはず」と考えていたと語っています。
議場での言葉遣いや議院の態度の悪さには辟易していたようで、強い言葉で非難をしています。
「議場は小学校生徒の討論会場でもない。弁舌の練習所でもない。悪罵嘲弄の製造場でもない」
「今日の議会には敬語も少ない。(中略)『馬鹿野郎』『黙れ』『止せ』などいう言葉が、最も多く敵味方の間に交換されて、聞くに耐えぬ醜陋な言葉を耳にすることは往々ある」
かつての武士は、敵として向かい合い、刃を交わす間柄となっても敬語を使い、相手への敬意を失わなかった。にもかかわらず、現代のこの議会の惨状はなんなのだと嘆き、「近時、立法府としての議会が、世の尊重を欠くのも、実にやむを得ない」と断じています。
無意味な建議案の提出についても苦言を呈しています。
当時、1年で数十件の建議案が提出されていましたが、代議士の間では「お土産案」とあだ名されていたようです。
案を提出することで地元民へのアピールになり、さらには自身のPRにもつながっていく。そのため、案の内容そのものよりも、数を出すことに注力され、無駄な時間と労力が取られていると語っています。
「この効力の少ない、価値のない議案が、なぜかくのごとく多く提出されるかといえば、案そのものの内容より、舌自慢、自個広告の分量の多い主我的議案に過ぎないからである」
「陣笠(注:下っ端議員を指す)から一足飛びに名士になり、雄弁家になり、選挙民へのお土産になるのは、この建議案の効果である」
一度、大きなネタを当てると一躍注目が集まり、有名政治家へとステップアップできる、それを狙う議員が多く見られた、ということでしょう。
残した言葉の端々に、武士の一本気が見え隠れする高原ですが、権力も実績もない新人議員には如何ともし難い状況だったようです。
自身の信念でもあった殖産興業の推進や減税の実行、地元・鹿児島への鉄道敷設計画など手掛けたい政策はたくさんあったようなのですが、結局、次の衆議院議員総選挙には出馬せず、高原は1期で政界から離れています。
参考資料:祖国同志会 編「鹿児島県九代議士議会感想録」(明治45年刊)