政治ドットコムトピックス「憲政の神様」が見た伊藤博文の真実

「憲政の神様」が見た伊藤博文の真実

投稿日2020.8.31
最終更新日2020.08.31

当選回数25回、在任期間63年という、政界のアンタッチャブル・レコードを記録している尾崎行雄。94歳まで議員を続け、「憲政の神様」「議会政治の父」とも呼ばれた尾崎は、昭和21年(1946年)にそれまでの政治活動を振り返った「随想録」(紀元社)を刊行しています。
そのなかで、自ら目にした歴代首相について、忌憚のない意見を述べています。

「薩摩は頭のいいものがない」

総理大臣の資格として必要な3要素を、尾崎はこう考えていました。
「総理大臣の資格として必要なことは、第一に統帥の才、第二に調和的の性格、第三に包容力」
しかし、憲政が発達しているイギリスではいずれの総理大臣もこれらの資格を兼ね備えているが、日本ではこれらの資格に欠けていても総理大臣になってしまうから困ったものだと嘆いています。

資質に欠けていても総理大臣になれてしまう理由、それは藩閥政治だと指摘します。
「薩長のものなら以上のような資格を持とうが持つまいが総理大臣になれたのに、薩長以外の人ではいかに優れていても下積みになっていなければならない状態であった」

たしかに、明治18年に初めて内閣が組閣されて以降、明治45年までに薩長以外で総理を務めたのは大隈重信と西園寺公望のふたりだけ。
このような事態を尾崎はこうボヤいています。
「薩摩は南国的であまり頭のいいものがなく、したがって総理大臣となるべき人物にも欠乏していたのだが、総理大臣は薩長から出すものと決まっていたから、人材を広く求めず黒田清隆や松方正義とかいうような者が総理大臣になった」
なんとも厳しい言いようです。

一方、長州出身の総理大臣には好意的に捉えていた人物もいたようで、「聴衆の方から出た伊藤博文、山縣有朋、桂太郎などはそれぞれ総理大臣たるの資格を備えていたから、藩閥の弊がなくとも総理大臣になれた人かもしれぬ」と記しています。

新しもの好きで金に無頓着で怒りっぽい伊藤博文

本書「随想録」の中では、実際に尾崎が目にした歴代総理についても舌鋒鋭く評しています。
日本初の総理大臣を務めた伊藤博文に関しては、「初物食いが好きだった」と述べています。
伊藤は初の総理大臣であり、貴族院初の議長であり、枢密院議長も朝鮮総督も初めて務めたのは伊藤でした。
これらを評して、「公(伊藤のこと)はいろいろな制度ー多くは内外の先例を参酌して、これを模倣したものに過ぎないがーを作って新局面に当たることが好きだった」と記しています。

こんなエピソードも書き残しています。
神鞭知常(明治時代の衆議院議員)は人を見る目に長けており、一種の慧眼を備えていました。
その神鞭が、伊藤を見て「伊藤さんの次の希望は軍服を着て刀剣を携えてみたいのだろう」と述べました。
その後まもなく伊藤は朝鮮総督となり、軍服を身に着け刀をぶら下げ、意気揚々と公的な場に出かけるようになります。
この姿を見て、尾崎は神鞭の言葉を思い出しては「失笑を禁じ得なかった」そうです。

尾崎の伊藤の人物評も奮っています。
伊藤のもっとも特徴的なところは、「執着心のないことである。人に対しても物に対しても。だから役人でも気に入る間は思い切って使うが、役に立たなくなると平気で捨ててしまう」と評しています。
伊藤本人も、部下から「犬養毅も星亨も、彼らには終身離れない子分がたくさんいます」と忠告されても「オレはその反対で、子分を作らぬということがオレの長所だ」と言い返したそうです。
この特徴から、「万事この調子であったから、伊藤公には崇拝者はあったが伊藤派というようなものはなく、理が非でも公のために働こうという人間はできなかった」と、尾崎は書き記しています。

国事に対してはすこぶる用意周到であったにもかかわらず、私生活はこれまた無頓着だったようで、自宅も大変質素。お金に対しても執着心を持ちませんでした。
伊藤が朝鮮総督となった頃、尾崎は「朝鮮では刺客に襲われるかもしれないし、なにかのトラブルに巻き込まれるかもしれない。私の身に何かあったら妻のために、10万円を贈る」という、伊藤の遺言状らしきものを目にします。
しかし尾崎は「伊藤公がどこにそんな大金を持っているのか怪しんだ」「金もないのに10万円やれと厳命する。こんなところに公の経済的真面目がある」とし、「経済のことは若い頃から井上馨に一任して少しも研究しなかったためか、公私ともに公の経済知識はすこぶる幼稚であった」と評しています。

伊藤は大変怒りっぽいことでも知られていました。
尾崎も同席したある懇親会の席上、某議員が伊藤を嘲笑するスピーチを壇上で行いました。
それを聞いた伊藤は怒り心頭、「オレは白刃の間を出入りして来た人間だ! 貴様のような小僧どもに愚弄されてたまるか! 刀を持ってこい! 決闘する!」と息巻きます。

会場は芝居もできる舞台を備えていたため、楽屋にはたくさんの模造刀があることを尾崎は知っていました。
怒っている伊藤がおかしくてたまらない尾崎は、怒鳴られている若手議員に「楽屋! 楽屋!」と目配せするも伝わりません。
すぐ隣に伊藤がいるために、詳しく説明することもままならない尾崎は、さらに目配せと手真似で楽屋から模造刀を持ってこいと訴えるのですが、やはり通じることはなく、叱られた議員が平身低頭謝ってその場は収まりました。

「あのとき楽屋から短刀を2本持ってきて『さあ決闘しましょう』と言って伊藤公に一本もたせたら面白いことになったろうと思う」とは、尾崎の言葉です。

初代総理大臣であり、長州藩の大名士である伊藤博文をも「怒っちゃって、面白い」とおもちゃにできる尾崎行雄。「憲政の神様」「議会政治の父」という二つ名は伊達ではありません。

※参考資料:「随想録」尾崎行雄著(昭和21年・紀元社)