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戦争になんか行きたくない! 本当にあった徴兵忌避策

投稿日2020.9.10
最終更新日2020.09.10

2020年は終戦から75年となる記念の年となりました。令和2年のこの年、新型コロナ禍に混乱しながら迎えた8月15日も、各地で戦没者を弔う行事が行われました。
現代に生きる我々が、戦前から戦中にかけてを思うとき、日本は国を挙げた軍国主義で、国民たちは喜んで戦争に協力したと考えがちですが、決して全員がそうだったわけではありません。あの手のこの手で徴兵を避けていた人々がいました。
当時、国民はどのようにして徴兵制度を避けようとしたのか、見てみましょう。

法の抜け穴をすり抜け合法的に徴兵を避ける

戦前の日本では、成人した男性は必ず徴兵検査を受けることが義務付けられていました。
この検査では、被験者の健康状態や身長・体重といった体格が調べられ、その結果によって甲・乙・丙・丁・戊の5段階に格付けされました。
甲は健康状態、体格ともに問題ない者。戊は命に関わる重大な疾患を抱える者で、入隊には不適格とされました。

表向きは入隊合格となれば喜んだ顔を周囲に見せざるを得ませんでしたが、本人や家族の本心としては戦地になど行きたくないし行かせたくないのが本音だったことでしょう。
徴兵制度の盲点を突き、兵役を免れる方法が数多く編み出されました。

まずは合法的な手段。
1873年(明治6年)に徴兵令が陸軍省から発布されてからしばらくは、お金さえ払えば徴兵を逃れることができました。
その金額は270円。現在の貨幣価値に換算すると、270万円から540万円くらいのイメージでしょうか。
しかし、この制度は「金持ち優遇策だ」との批判を受け、1883年(明治16年)の法改正をもって廃止されました。廃止までの間に、約2000人がこの制度を活用したと言われています。

お金で解決できなくなると、次は養子制度を使った方法が活用されるようになります。
当時、一家の長男は徴兵されない特例がありました。
そこで、次男以降の男子は、男子のいない家に養子に行ったり、書類上だけの家族を作って長男に据えることが頻発します。
しかしこの方法も「養子縁組の数があまりに多い」と政府から目をつけられ、1889年(明治22年)の法改正で長男も徴兵されることになり、使えなくなりました。

これらとは異なり、後年まで長く活用されたのが学生の身分を使った徴兵忌避策です。
徴兵令では、中学校卒業後、当時の文部省が指定する高校や大学、専門学校に進学している場合、26歳まで徴兵されないことになっていました。
当初、徴兵が免除される指定校は公立の学校のみ対象でしたが、この決まりに私学側が大反発。一部の私学にも認められることになります。
その結果、徴兵猶予を求めて徴兵免除が認められた私学に受験者が殺到しました。
全員が徴兵忌避を意図していたわけではありませんが、1931年(昭和6年)に学生のために徴兵猶予となった人数は約8万人、1934年(昭和9年)には約9万人に達し、最多を記録しています。
しかし、戦争も終盤を迎えるころにはこの制度も廃止。一部の理工学系や医学系の学校を除いて、学生たちも戦争に駆り出されるようになります。

他にも、海外留学者や海外で働いている人々も徴兵を猶予されました。
その数が、1926年(昭和元年)には約3.7万人、1933年(昭和7年)に約4.5万人、1937年(昭和11年)には約5.4万人と年々増加しているところを見ると、徴兵忌避を目的に海外に移った人も多くいたことが予想されます。

刑務所に入れば徴兵を避けられる!?

徴兵を避ける方法は合法的なものだけではありません。
大切な命を守るため、ありとあらゆる手段を講じていました。

「夜逃げする」「失踪する」というのは、もっともシンプルな徴兵忌避方法でした。
しかし、行方不明者になることで徴兵を避けることはできるのですが、社会生活を送るには多大な制約を受けることにもなります。
それでもなお失踪する人は跡を絶たず、徴兵検査の対象者のうち約2000人が毎年行方不明になっています。
後年、都市部への空襲が激しくなると、「空襲によって行方不明になった」ことにして、徴兵を避ける方法も激増しました。

「わざと罪を犯して刑務所に入る」というウルトラCを使った忌避方法も使われました。
徴兵令では「6年以上の懲役、禁錮を受けたものは徴兵しない」と定められていました。この方法を選んだ人の決意からは、それなりに重い罪を犯してでも戦地には行きたくないという思いが伝わります。本人は罪を犯すにあたって、大きな葛藤を抱えていたのは想像に難くありません。

「醤油を飲んで一時的に心臓障害を起こす」といったような自傷行為も頻発したことは広く知られています。
そのほかにも目を突く、手足を切る、骨を折る、精神病を装うといった方法のほか、急激に体重を落とすといった手法(?)も編み出されました。
また当時をしる人の証言として、評論家・山本七平著「私の中の日本軍」(文春文庫)には、「検査の前々日にツベルクリンの注射をして、その朝にナマズの生き血を飲む」といった、効くのか効かないのかも定かではない、民間療法的な方法が行われていたことも記されています。

これら非合法の徴兵忌避法は、在郷軍人会や青年団、特高警察などによる監視の目が厳しくなるにつれ、なかなか通用しなくなりました。

なんとしても徴兵を避けたいという思いは、太平洋戦争が始まる前から多くの日本人が抱えていました。
そのことがわかる発言が、1918年(大正7年)の帝国議会の議事録に残っています。
当時の文部次官、田所美治の発言です。
「日本人の身長も体重も毎年増している。男女を通じて過去10年間、ほとんど例外なしに増加している。にもかかわらず、徴兵検査の結果を見ると、真逆の数値が出る。これは詳しく調査する必要がある」(意訳)

大正時代、徴兵検査の結果を見ると被験者の体重が毎年約70グラムずつ落ちています。つまり田所は「徴兵検査を受ける者が、何らかの不正をして体重などをごまかしている可能性が高い」と指摘しているわけです。

お上が決めた決まりでもイヤなものはイヤだ。
戦前の日本人はどこか勇ましい印象がありますが、戦争に行きたくないという人たちも、当然いたということでしょう。
そして、その本音のほうが健全な精神であるというように思うのですが、いかがでしょうか。

この記事の監修者
政治ドットコム 編集部
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