軽い気持ちで付けられた苗字も
1870年(明治3年)9月19日、平民苗字公証許可令(太政官布告608号)が交付されました。
この公布を発案したのは民部省の司法大輔・細川潤次郎でした。
細川は「天賦固有の権利を同等に持ち居ながら、人為の階級に拠りて、平民ばかりには名前のみを呼ばせて、苗字をいはせぬというのは圧制」という美しい理由から平民といえども苗字をつけるべきだと主張した一方で、「もののかずならぬ素町人、土百姓とは申すものの、いやしくも人間の皮をかぶっていてみれば、人間並の扱いをいたさねばならぬ」という言葉も残しており、四民平等の精神から建議したというよりも、政府が戸籍を作るにあたって苗字がないと不便だからという理由によるものではないか、という説が有力です。
とにもかくにも、それまで士族にしか認められなかった苗字が、農民にも商人にも認められることになりました。
とはいえ、いきなり「さっさと苗字をつけろ」と言われても困ってしまいます。
自分で考えられない農民などは、その里の長老の元へと足を運んで適当な苗字をつけてもらいました。
長老も、最初のうちは知っている苗字を順番に付けていったものの、何十人も殺到するとそのうちネタも尽きてしまい、その者の職業を聞いてそこからつける、といった様子になっていたようです。
たとえば、荷物運びを生業としている人には「勝木」(※「荷を担ぐ」ことから)といったようにです。
愛媛県のある漁村での実話。
その村の長老だった水守徳右衛門は、江戸時代以来の庄屋として村人から慕われていました。
苗字が必要になった村民たちは、まっさきに水守のもとを訪れて相談します。
始めのうちは知っている苗字を付けていた水守も、いよいよネタ切れに。そこで訪ねてきた村人に質問します。
「お前の家の庭にはどんな木が生えている?」
「エノキです」
「じゃあ、お前は今日から榎(えのき)だ」
この調子で、松の木が生えていれば松木、山の上に家があれば山上、坂の下に家があれば坂下、大きな船を持っていれば大船、家のそばに石があったから大石と、それぞれ付けていきました。
ある日、漁を終えた漁師たち十数人が水守の元を訪れます。
もはや考えるのに疲れ果てた水守は、「また今度にしてくれ」と断るものの、「自分たちだけ苗字がないのは恥ずかしい」「他に頼れる人がいない」と懇願され、やむなく相談に乗ることにしました。
水守は質問します。
「今日はなにが獲れた?」
「はい、サバです」
「じゃあ、お前は今日から『鯖』(サバ)だ」
この調子で、下膨れの顔をしていた男には「鰒(ふぐ)」、鯛釣りの名人には「鯛」(タイ)、禿げ上がった男には「蛸(タコ)」と付けました。
「苗字は大切なものだ、そんなふざけた名前にするべきではない」と、多少、物事を知っている男が注意しますが、村人はかえって男を袋叩きにしてしまったと伝わっています。
珍姓を付けられた人々のその後
その中のひとりに、水守から「大根(だいこん)」と付けられた男がいました。
彼は後に水兵となったものの、同僚たちから「だいこん、だいこん」と馬鹿にされ続けます。
ある日、乗っていた船が長崎に着き、料理屋で食事をしていると、仲間のひとりが「そこの大根百姓、ありがたくこの酒を飲め」と暴言を吐きました。この言葉に長い間我慢していた大根氏も、ついに堪忍袋の緒が切れます。
酒に酔っていた大根氏は、懐に忍ばせていたナイフを抜くと、相手に襲いかかってしまいます。
襲われた男はその傷が元で命を落とし、大根氏は懲役に服すことになりました。
蛸(タコ)氏のその後も記録が残っています。
彼は数年、村を離れていたものの、ある日ふらっと帰ってきます。
帰ってきた蛸氏は見るからに良い服を来て、景気が良さそうでした。
話を聞いてみると、大阪の金持ちのもとに養子に入ったが、養父はすぐに亡くなり、妻も死んだので、多額の遺産が転がり込んだとのこと。
さらに昔と違ったのは、養子に行っていたために苗字が蛸から木村に変わっていたことでした。
遺産を元に生まれ故郷の村に新築の家を建てようとしていた蛸こと木村氏でしたが、まもなく刑事がやってきてしょっぴかれてしまいます。
容疑は強盗殺人でした。
後に分かったことですが、村を出た蛸氏は、小学校の先生になったものの、児童から「タコ、タコ」とからかわれ、授業になりません。
しかたなく他の学校に移って勤めますが、どこに行ってもその苗字が邪魔をしてからかわれ、馬鹿にされ、次第には居心地が悪くなって辞めざるを得なくなってしまいます。
困った蛸氏は兵庫へと移り、荷揚人足として日銭を稼ぐ日々を過ごしました。
その頃、宿で同じ部屋となった山中という同世代の男性と仲良くなります。
ともに独身で気があった上、たまたま互いの名前も「長太郎」と同じでした。
自らの苗字に嫌気が指していた蛸氏は、山中に戸籍を交換しようと持ちかけます。
山中は深く考えることもなくこの提案を受け入れ、蛸は山中に、山中は蛸にと、苗字が変わりました。
ところが、この新しい蛸こと、元山中はたちの悪い男で、ギャンブルや恐喝を生業としていました。
やがて、借金がかさんで兵庫にいられなくなると岡山に移り、そこで強盗殺人事件を起こしてしまいます。
村に刑事がやってきたのはそんな理由からでした。
古い方の蛸氏は、まったくの潔白で強盗殺人事件の罪を背負わされてしまったわけですが、無実が証明されるまで、2年もの間未決囚として監獄で過ごす羽目になりました。
結局、真犯人の新しい蛸氏が別件で逮捕され、余罪として白状するまで、釈放されることはありませんでした。
ふざけた苗字を付けまくった村の長老の水守は、これらの悲しい事件を聞くと前非を大いに悔やみました。
彼らの苗字変更の手続きを取ろうと、ほうぼうに懇願に回りますが時既に遅し。1872年(明治5年)の8月、みだりに苗字を変えてはならないという「家の不動の原則」が出されており、苗字の変更は不可能となっていました。
それでも諦められない水守は、毎年のように愛媛から東京まで上り、政府の高官や政治家たちに陳情して回りましたが、受け入れられません。
しつこく活動を続ける水守はやがて、村人たちからも白い目で見られるようになっていきます。
1895年(明治22年)、水守は沼津にある宿屋の玄関先で卒倒し、そのまま亡くなりました。
明治天皇が沼津に行幸に来ていることを知った水守は、苗字変更を直訴しようと沼津を訪れていたのです。
亡くなった水守の懐には、天皇に渡す「直訴状」がしっかりと抱かれていましたが、その手紙が明治天皇に渡ることはありませんでした。