政治ドットコムトピックス17歳の右翼少年が社会党委員長を刺殺(1960年10月12日)

17歳の右翼少年が社会党委員長を刺殺(1960年10月12日)

投稿日2020.10.28
最終更新日2020.10.27

独自に思想を先鋭化した右翼のテロリストが、当時の社会党委員長の浅沼稲次郎氏を刺殺したのは1960年10月12日のことでした。
言論を暴力で封じ込めるテロは現在も昔も許されることではなく、社会は大きな衝撃を受けました。
さらに驚いたのは、犯行に及んだ少年がわずか17歳だったこと。そして、取り調べで一通り話し終えると、自ら命を絶ったことでした。

父親に届いた「虫の知らせ」

その日の深夜、男性がポータブル・ラジオのスイッチを入れたのはまったくの偶然だった。
いつもならぐっすり寝ているはずのその時間、ふと目を覚ました彼が伸びをするように腕を伸ばした先に、そのラジオがあったのだ。
ラジオは臨時ニュースを報じていた。
「……17歳の少年が……少年鑑別所で2日午後……自殺を図り……死亡しました。……臨時特報をお伝えしました」
途切れ途切れに聞こえたアナウンサーの声。
17歳? うちの息子と同じ年齢だ。まさか……。でも、17歳の少年なんて国内に何万人もいるじゃないか。少年鑑別所とも言っていた。息子は警視庁にいると聞いているから無関係のはずだ。しかし、ラジオがその死を臨時ニュースで報じるほどの17歳と言ったらーー。
「……これは息子に間違いないだろう」
昭和35年11月3日午前0時40分過ぎ、彼は息子の死を確信した。
少年鑑別所で首を吊って自ら命を絶った少年の名前は山口二矢(やまぐち・おとや)。彼は当時の社会党委員長だった浅沼稲次郎を演説会の壇上で刺殺、日本中を震撼させた。

開演前から会場は混乱していた

昭和35年、日本は三井三池炭鉱事件や安保闘争で騒然としていた。
7月19日に岸信介首相が退陣し池田勇人首相に代わると、いくぶん世情は安定してきたかのように思われた10月12日、自民党・社会党・民社党の3党党首立会演説会「総選挙に臨む我が党の態度」が日比谷公会堂で行われた。
2500人を超える聴衆で埋まった会場で、西尾末広(当時民社党委員長)、浅沼稲次郎(当時日本社会党委員長)、池田勇人(当時自民党総裁)3氏の演説が行われることになっていた。
定刻前から会場は混乱していた。
右翼の街宣車が会場前でシュプレヒコールを上げる。開場すれば場内に右翼のメンバーが散らばり、始まる前から野次を飛ばす。
浅沼氏が壇上に上がった午後3時10分頃、野次はさらに激しさを増す。
「中ソの手先!」
「アカハタ社会党撲滅!」
あまりの野次の激しさに、壇上で演説を行っている浅沼氏の声をマイクが拾えない。
会場の混乱を受けて、司会を務めていたNHKのアナウンサーがいったん浅沼氏の演説を中断、聴衆に「静粛に聞くように」と呼びかけた。
カーキ色の服を着た少年が壇上にかけ上ってきたのは、アナウンサーの呼びかけを受けて一瞬、会場が静まり返ったときだった。
スタッフが制止するひまもなく、少年は浅沼氏に体当たりをするようにして、手に持っていた刃渡り34センチの脇差で左脇腹を2度刺した。
浅沼氏は直ちに関係者によって会場脇で警戒にあたっていたパトカーに乗せられ病院へと向かったが、その途中で息を引き取っている。

小学生時代から左翼を敵視

山口はその場で取り押さえられ、丸の内署に連行された。
わずか17歳の少年による凶行に、「背後に指示した人間がいるに違いない」と誰しもが考えたが、山口は最後まで「自分の意志で行った」との言葉を変えなかった。
山口は昭和35年11月1日、2日の2回にわたって警視庁公安部の取り調べを受け供述書に署名している。2回目の供述書に同意した11月2日の夜、彼は東京少年鑑別所で自殺した。
この供述書に、彼が事件を起こすに至るまでの思想の推移が述べられている。
「小学校の4、5年生で11、2歳ですから昭和29年か、30年頃と思いますが、(中略)社会党や共産党、労働組合がストやデモをやって騒ぎ『戦前の日本は悪かった』などと云っているので反撥を感じこれらの悪い点を探すために書物や新聞をよく読み人から聞いて何となく『左翼はけしからん』と思うようになりました」
中学〜高校時代を通して教師や日教組への不信感を募らせた山口は、新聞や書物を乱読し、自らの「正義」を作り上げていく。
高校時代には「共産党、社会党、労働組合など左翼をこのままのさばらしておくと日本が赤化してしまう」という極端な思想にまでたどり着いている。
昭和34年に16歳になると、反共主義、愛国主義を掲げる極右団体の大日本愛国党(初代総裁・赤尾敏)に入党、入党後は赤尾の思想に心酔し行動をともにするようになる。
浅沼氏が中国を訪問し「アメリカ帝国主義は日中共同の敵」と演説したのを聞いた山口は、中国に媚びていると憤激。浅沼氏の殺害を決意する。

七生報国 天皇陛下万歳

自殺する直前、最後の尋問で山口はこう供述している。
「浅沼委員長を倒すことは日本のため、国民のためになることであると堅く信じ殺害したのでありますから、やった行為については、法に触れることではありますが私としてはこれ以外に方法がないと思い決行し、成功したのでありますから、今何も悔いるところはありません。
しかし現在、浅沼委員長はもはや故人となった人ですから、生前の罪悪を追求する考えは毛頭なく、ただ故人の冥福を祈る気持ちであります。また浅沼委員長の家族に対しては経済的生活は安定されているであろうが、如何なる父、夫であっても情愛には変わりなく、殺害されたことによって悲しい思いで生活をし、迷惑をかけたことは事実でありますので、心から家族の方に申し訳ないと思っています」
昭和35年11月2日の午後8時頃、山口はベッドのシーツを細長く裂くと、よって80センチほどの紐を作った。
天井にぶら下がる裸電球を覆っている鋳物製の金網に、手製の紐をくくりつけると、翌朝使うために支給された粉歯磨きを手に取った。
水に溶いて指に付けると、部屋の壁に一文字一文字時間をかけて文字を遺した。生涯最後に刻んだのは10文字。
「七生報国 天皇陛下万歳」
その思想、その生涯はまるで、戦時中の軍国少年が戦後15年経ってふたたびよみがえったかのようだった。

※参考資料:「山口二矢の供述調書」(「正論」平成11年12月号)/「週刊新潮」(1695号)/「風流夢譚の批判と国民への訴え」/「週刊公論」(45号)/「週刊現代」/「わが言論斗争録」(浅沼稲次郎著)/「富士」(1960年5月号)/「日本政経人評伝第1集」/「朝日新聞」/「読売新聞」/「毎日新聞」


浅沼委員長刺殺事件を新聞各紙は当日の夕刊で一斉に報じた(写真は毎日新聞)。


襲われた浅沼委員長は急ぎ救急車で運ばれるも、その道中で息を引き取る(写真は朝日新聞)。


暗殺犯・山口二矢の自殺を報じる新聞。取り調べで一通り話を終えた山口は、シーツを割いて作ったロープで首吊り自殺をする。