政治ドットコムトピックス右足を失うも二度の総理を経験した不屈の魂(明治22年10月18日大隈重信暗殺未遂事件)

右足を失うも二度の総理を経験した不屈の魂(明治22年10月18日大隈重信暗殺未遂事件)

投稿日2020.10.29
最終更新日2020.10.27

明治期に5回の外務大臣、2回の総理大臣を経験した大隈重信ですが、決して順風満帆な政治家人生ではありませんでした。
政変に巻き込まれ失脚する、暗殺犯に命を狙われ大怪我を負い右足を切断する等、不遇の時期も多く過ごしています。
それでも腐ることなく不屈の精神で危機を乗り越え、近代日本に大きな成果を残しました。
ここでは明治22年10月18日に起こった、大隈重信暗殺未遂事件についてお届けします。

政変に巻き込まれ失脚

1874年(明治7年)、板垣退助、後藤象二郎らが議会の開設を求めて「民撰議院設立建白書」を政府に対して提出したことをきっかけに、国内では自由民権運動が盛り上がりを見せました。
1881年(明治14年)3月、ロシアのアレクサンドル2世暗殺事件が起こったことでさらに自由民権運動が盛り上がっているさなかの7月、薩摩出身の北海道開拓長官・黒田清隆が同郷の政商・五代友厚に官有物を格安の値段で払い下げていることが発覚。政府への強い批判が起こり、自由民権運動は一層激しさを増していきます(開拓使官有物払い下げ事件)。
この払い下げ事件の際、政府内の人間である大隈重信が「不当に廉価である」として払い下げの中止を求めたことに伊藤博文が激怒。利敵行為であるとして追放を決意します(明治14年の政変)。
憲法論議が高まっていた当時、君主大権を残すビスマルク憲法かイギリス型の議院内閣制の憲法とするかで議論が分かれていました。要人では前者を伊藤博文と井上馨が、後者を大隈重信などが支持しましたが、最終的にこの政変によって伊藤派が主流となり、1890年(明治23年)に施行された大日本帝国憲法は、君主大権を残すビスマルク憲法を模範とすることになります。
さらに政府は国民の批判を避けるため、10年後の国会開設を決定。「国会開設の勅諭」を出しました。
しかし、これは決して前向きな発想で出されたものではなく、「10年も経てば自由民権運動も収まっているだろう」との思いで苦し紛れに発せられたものと言われています。
ともあれ、政府を追い出され、野に下った大隈は10年後の国会開設に備えて翌1882年(明治15年)に立憲改進党を結成。また同年、東京専門学校(のちの早稲田大学)も開設し、雌伏の時を過ごします。

条約改正に意欲を燃やす

政変での失脚から6年後の1887年(明治20年)、大隈にふたたび光が当たります。
当時の外務大臣井上馨は、列強との条約改正に苦しんでいました。
同年9月に至るといよいよ国論の反対は無視できないほどになり、井上は外務大臣を辞職します。
この条約改正を任せられる人間はいないのか、当時の総理大臣伊藤博文が白羽の矢を立てたのが大隈でした。
翌1888年(明治21年)2月、大隈は6年ぶりに政府に帰ってきます。
4月に伊藤が総理大臣を辞めて枢密院議長へ転じると、後任に黒田清隆が総理大臣となりました。
黒田と大隈は条約改正に向けて邁進します。
条約改正案が大隈の中でまとまると、イギリス、フランス、ドイツ、ロシア、イタリア、オーストリア6カ国に対して、イギリス「タイムス紙」上で5つのメッセージを公開します。
当時、大隈は徹底した秘密主義で事を進めていたために、国内で改正案の中身について知っている人間は限られていました。
そのため、改正案の内容が国内に逆輸入の形で伝わってくると、世論は一気に紛糾します。
外国人を日本の裁判官に任命すること、税権と法権が自由になるのは早くても12年後という内容だったためでした。
これらの内容は、前任の井上馨案よりは一歩進んだ内容であることは誰もが認めていたのですが、裁判官に外国人を任ずるという点が特に波乱を呼び、世論は真っ二つに分かれます(当時、大隈案を擁護したのは「報知新聞」。逆に大反対したのが「東京公論」「東雲新聞」など)。
政府内でも、当初は反対する者はいなかったのですが、世論が紛糾すると次第に両派に分かれていきます。
7月23日に当時の法制局長官の井上毅が条約改正案に反対して辞任すると、逓信大臣の後藤象二郎、大蔵大臣の松方正義も中止説を主張するようになりました。
反対論が盛り上がっているなかも、首相の黒田と大隈は頑として条約改正を進めようとします。

右脚の1/3を失う

1889年(明治22年)10月18日、来島恒喜の姿が霞が関にありました。
来島は福岡の政治団体玄洋社に所属しており、大隈の条約改正案に強い憤りを抱いていました。
そして、この国難を免れるには大隈の命を奪うしかない、来島はそう思い込んでいました。
10月18日早朝、在京の同胞と最後の別れを交わすと、午前11時に一度宿へ戻り、同志と酒を酌み交わし、午後2時に新調したモーニングコートを羽織るとかねてから用意していた爆弾を洋傘の中に仕込み、宿を出ました。
大隈が閣議を終え、宮中から官邸に帰ろうとするところを来島は外務省前で待ち構えます。
午後4時頃、大隈の乗った2頭立ての馬車が桜田門から出てきました。
近衛兵営の前を過ぎ、霞が関の官邸に入ろうと、まさに馬の首を外務省の表門に向けようとしたとき、来島は大隈めがけて手製の爆弾を投げつけます。
爆弾が爆発すると、あたりには白煙が舞い上がりました。
来島は短刀も用意しており、自ら大隈の身体に突き立てる準備はできていましたが、白煙を見てこの爆発なら大隈は死んだはずと確信。
皇居に向かって右手を上げて再拝すると、手にとった短刀で自らの首を刺し、自決します。
しかし、大隈は生きていました。
爆弾の破片が右足を傷つける大怪我は負っていましたが、命に別状はありませんでした。
事件当日、診断した医師が残した診断書が残っています。
それによると、大隈は右足に2箇所の怪我を負ったことがわかります。
1箇所はスネから内くるぶしまで、長さ6センチ、幅1センチの傷。この傷は靭帯の一部を破壊していた上、骨まで見える傷でした。
もう1箇所はスネの骨の上部の内側に、長さ8センチ、幅3センチの傷。この傷によって膝の関節と靭帯が破壊されていました。
これらの傷は「下脚を保存し能わざるもの」と診断され、切断手術が施されました。
事件発生日の午後7時50分に終わった手術によって、大隈は右足の下部1/3を「輪状切法を以って太腿と切断」されることになりました。
この事件は政府内に大きな衝撃を与えました。
翌10月19日に東京にいた薩長すべての閣僚が条約改正延期に合意。10月23日には大隈以外の閣僚と、首相の黒田の辞表が取りまとめて提出されました。大隈の辞表は体力が回復した12月14日付けで出されています。
大怪我を負った大隈でしたが、その後も屈することはありませんでした。
その後、一時失脚するも再び中央政界に舞い戻り、2度の首相を経験。
自らの命を狙った来島に対しても「決して気違いの人間で、憎い奴とは寸毫も思わない」「外務大臣である我が輩に爆裂弾を食わせて世論を覆そうとした勇気は、蛮勇であろうと何であろうと感心する」と語り残し、毎年、来島のために行われていた法要にも代理人を必ず送っています。
波乱の人生を送った大隈は、1922年(大正11年)1月10日、83歳でこの世を去りました。

※参考資料:「明治大正流血史談」/「大隈重信」/「會議雑誌 第131号」