政治ドットコムトピックス交差点を左折し忘れたがために大騒動に 昭和天皇誤導事件(1934年11月16日)

交差点を左折し忘れたがために大騒動に 昭和天皇誤導事件(1934年11月16日)

投稿日2020.11.16
最終更新日2020.11.16

道を一本間違えたために自害を決意する、全国から「責任を取れ」と誹謗中傷が寄せられる、そんな「事件」がありました。
昭和天皇の行幸を先導する一台の車が、交差点を左折し忘れて直進してしまった。たかがこれだけで担当警部はもちろん、当時の内務大臣まで野党から猛烈な攻撃を受けてしまいます。
昭和天皇誤導事件と呼ばれる、現代に生きる我々には理解しがたい事件についてお届けします。

事件の概要

1934年(昭和9年)11月16日、昭和天皇は群馬県桐生市内を視察することになっていました。
当日の視察順路は、桐生駅→桐生西小学校→桐生高等工業学校の順。桐生駅の北を東西に走る末広町通りを真っ直ぐ進み、末広町交差点を左に曲がると桐生西小学校に着く。準備は万端のはずでした。

この日、昭和天皇が乗る車を先導していたのは群馬県警察部衛生課勤務の本多重平警部(当時42歳)らふたりの警部でした。
当初の予定通り、桐生駅を出発し末広町通りを直進します。
やがて至った末広町の交差点。左折しなければならないところ、本多警部の乗る先導車はそのまま直進してしまいます。
その結果、計画では「桐生駅→桐生西小学校→桐生高等工業学校」の順路だったはずが、先に桐生高等工業学校へ向かい、次に桐生西小学校に着くという、予定とは真逆の工程になりました。現代の感覚では「それくらい構わないだろう」と思ってしまうところですが、当時、天皇は「現人神」です。人の姿をした神様をお招きするために、桐生市では1年前から準備を進めていました。
本来であれば到着するはずの桐生西小学校では「天皇陛下が行方不明になった」と大騒ぎ。
それだけではなく後日、政界を揺るがす大騒動へと発展していきます。

天皇の道案内を間違えた当事者とされた本多警部も、その後、数奇な運命をたどっていくことになります。

なぜ道を間違えたのか?

本多警部は事件の当日、代役で桐生市内の先導を務めていました。
自身は前日の11月15日、前橋市内を行幸していた天皇陛下の先導役を無事に果たし終えていました。
大役を終えてホッと一息ついていた15日の夜、翌日の先導担当者から電話がありました。
「体調が悪いから、明日の先導役を代わってほしい」
本多警部が準備していたのは前橋市内の先導でした。桐生市内は下見さえしていません。当然、その依頼を渋ります。
すると電話口に翌日の先導車の運転手が出て「絶対に大丈夫です」と言い切ります。その様子から、本多警部は断りきれず、引き受けることになりました。
迎えた当日、曲がるべき末広町交差点に差し掛かりました。
沿道は天皇陛下を歓迎する人々が埋め尽くしています。

本人が残した証言を伝える家族の言葉によると「人手の多さから直進して当然のように見えた」と語っています。
前日「大丈夫」と胸を張った運転手も、同情していたもうひとりの警部も、沿道の人並みに惑わされてしまいました。
「あっ、間違えました」と、運転手が叫んだのは、交差点を過ぎてかなり走った後でした。すでに陛下の車も交差点を過ぎています。
「引き返せない。このまま進め」。本多警部は運転手に命じます。このとき、死を覚悟していたといいます。
突然の代役依頼による現場についての情報不足と、沿道の人並みによる混乱がこの事件の原因でした。

全国紙に取り上げられるほどの大問題に発展

事件の翌日の「東京朝日新聞」には次のような見出しが載りました。
「先駆の過失から 行幸ご予定変更 関係官責任問題か」
道を一本間違えて、当初の予定がほんの少し狂っただけです。現在の我々からしてみれば「どうでもいいこと」ですが、(繰り返しになりますが)現人神たる天皇の案内を間違えるなど言語道断、大きな責任問題となっていきます。

同日の夕刊では「行幸先駆失態問題 政府責任を痛感 内相帰京後慎重協議」との見出しが躍ります。
与党がミスをしたとなれば大喜びするのが野党の常。100年近く前も現在もこれは変わりません。
鬼の首を取ったように野党の政友会は内務大臣を務める後藤文夫を攻め立てます。
この世上の大騒ぎが不幸な事件を引き起こします。

11月16日の事件当日まで時間を巻き戻します。
順路こそ当初予定と異なったものの、先導役を終えて本多警部は帰宅します。
帰宅した本多警部は自ら謹慎します。
先導役を務めた際の制服を脱がず、正座を崩さずに部屋にこもりました。
この様子を聞いた群馬県は「なにかあってはいけない」と本多警部の部下ふたりを本多家に派遣、監視させます。
やがて2日経ち、昭和天皇が次の目的地前橋へと向かうお召し列車出発の時刻が近づきました。
すると、本多警部は家族に対して突然怒鳴りだします。
「この不忠者め! お見送りに行かんか!」
慌てて駅へと向かう家族でしたが、娘の八重子さんだけが不安を感じてひとり廊下の隅に隠れました。
やがてお召し列車出発を知らせる花火が鳴り始めました。
対称的にしーんと静まり返る家内。あまりの静けさに本多警部のこもる部屋の障子を開けてみると、黒い制服を着た本多警部は自ら喉を突いており、血まみれでうつぶせに倒れていました。
道を間違えた責任を取って自害しようとした本多警部でしたが、死を急ぐあまり、日本刀を素手で掴んでいたことが幸いしました。
指が切れ、最後のひと押しをするまえに力が抜けたために命は取り留めました。

しかし、舌の筋は切れてしまいろれつが回らなくなってしまいます。
他人との会話にも支障をきたし、家族による「通訳」抜きに意思の疎通が取れなくなってしまいました。
また、治療のさなかで食道と気管が癒着してしまい、食事の際に食べ物が気管に入ってしまう後遺症にも悩まされることになりました。
食事のたびに激しくむせていたと家族は伝えています。

若くして2つの警察署の署長を務めるなど、前途を大いに期待されていた本多警部の将来は完全に閉ざされました。
失意の彼を支えたのは、自殺未遂報道を受けて「よく責任を取った」と全国から寄せられた手紙だったそうです。

戦後の本多警部

敗戦後、昭和天皇は人間宣言を行い「神から人へ」降下されます。
本多警部はこのことが理解できなかったと、家族が取材で答えています。
「世の中は変わった。武士道は必要なくなった」
「もう世を捨てた」
軍服から背広姿となり、全国を視察される昭和天皇の姿を見て、このような言葉を口にしていたといいます。
世捨て人となった本多警部は、桑畑を手入れし、牛を育て、葉たばこを作りながら飄々と余生を送っていました。
1960年(昭和35年)5月22日、天ぷらを気管に詰まらせむせながら命を落としました。享年68。
現代を生きる我々にはなかなか理解し難い事件ですが、かつて、このような時代がたしかにありました。

※参考資料:「東京朝日新聞」昭和9年11月17日〜11月19日号/「朝日新聞」昭和60年1月4日号内「それぞれの昭和(3) “武士道”失った余生」


事件の第一報を伝える「東京朝日新聞」昭和9年11月19日号


本多重平警部(当時)