政治ドットコムトピックス遅れてきた暗殺者・伊庭想太郎はなぜ星亨を殺したのか

遅れてきた暗殺者・伊庭想太郎はなぜ星亨を殺したのか

投稿日2020.11.16
最終更新日2020.11.16

1901年(明治34年)6月21日、衆議院議員の星亨は剣道指南の家に生まれた伊庭想太郎によって刺殺されます。若き血潮に背中を押され、勢いのままに行動に移す若者とは違い、伊庭は当時51歳。教育者として校長も務めた人格者でした。
この「遅れてきた暗殺者」伊庭は、なぜ星を暗殺しなければならなかったのでしょうか。残された当時の資料を元に見てみましょう。

「金権選挙の権化」星と義憤に燃える教育者の伊庭

星亨は1850年(嘉永3年)5月19日に左官屋の息子として生まれています。
少年時代に英語を学び、明治維新前後には英語教師として活動、その後大蔵省の役人となり、横浜税関に勤めたこともありました。
1874年(明治7年)にはイギリスに留学して弁護士資格を取得。1877年(明治10年)に帰国すると翌1878年(明治11年)に司法省附属代言人(明治前半期における弁護士のこと)となります。

この代言人時代には、自由民権運動が活発だった1882年(明治15年)に、県令三島通庸が会津三方道路工事事業に反対する福島県の自由党員・農民を弾圧した福島事件や、1885年(明治18年)に大阪で起こった自由民権運動の激化事件のひとつである大阪自由党事件を弁護しています。
1882年に自由党に入党、1892年(明治25年)に栃木県から衆議院議員総選挙に出馬すると当選し、その年に衆議院議長となっています。
しかし、その傲岸不遜な態度が問題視されたのと同時に疑獄事件に連座して除名処分を受けます。
衆議院議長解任決議が行われるも数度にわたってこれを無視し、登院し続けたことでも話題となりました。

除名された後も選挙には当選し続け、1896年(明治29年)に駐米公使、第二次伊藤博文内閣では逓信大臣となりますが、星の関与が根強く疑われた東京市疑獄事件をきっかけに、星は伊藤に迷惑がかかることを恐れて辞任しています。
星本人の生活は質素で実直だったと言われていますが、数々の汚職疑惑に関わったのではないかと言われており、当時から「金権選挙の権化」のイメージが色濃い政治家でした。
また、強引な政治手法も格好の攻撃の的となり、「オシトオル」「公盗」「醜魁」といった激烈なあだ名で後ろ指を指されることも多かったようです。

一方、星を暗殺した伊庭想太郎は、1851年(嘉永4年)に心形刀流・伊庭秀業の四男として生まれます。伊庭家は代々剣道指南の家系で、想太郎は11代目にあたります。
長じると、大正〜昭和時代の精神家として知られる小笠原長生の家庭教師となり、その後は私立農業大学の前身で榎本武揚が創立した東京農学校の教師から校長となり、1901年(明治34年)の事件当時は四谷中町三丁目で私塾を開き、近隣の子どもたちを教えていました。

伊庭が星を暗殺しようと決意した動機は、星の生涯に常につきまとった疑獄と収賄への不信でした。
伊庭の取り調べや裁判での供述、斬奸状から要約すると、星は「収賄党の巨魁」であり、東京市疑獄事件が起こると、幼児でさえ星を賊と呼んでいる。にもかかわらず、星が起訴されないのは、司法大臣が法を曲げた対応をしているためである。
同じく伊藤博文は真面目に政治はせずに酒色に溺れているのに星は伊藤に媚びへつらっている。その星が東京市教育会の会長となってしまった。これは東京市民の顔に泥を塗る行為である。星こそが憲法政治を踏みにじる大逆賊なのだから、これを殺すというのが大筋の理由のようです。

世論は伊庭を支持

伊庭は星の暗殺を決意すると、1901年(明治34年)6月12日に掛け物と父祖伝来の短刀を持って家を出て、旅館で斬奸状や遺書を書いています。
6月16日に星が東京市教育会で「教科書に忠臣孝子を厚くしてあるのは誠に役に立たない」と話したという記事を新聞で見つけ、「天皇陛下のご勅語を打ち破る精神である」ととらえ、さらに決意を固めたと後に話しています。

6月18日には短刀を研いでXデーへの準備を整え、星邸付近を巡って下調べをしました。
そして迎えた6月21日の事件当日、斬奸状や遺書を投函すると、紹介状を使って市役所で星に面会を求めますが、「今日は会わない」とにべもなく断られてしまいます。
ふとあるひと部屋を覗くと、12〜3人が会議をしておりそのなかに星もいる。
そのまま星の下へ突進し、「逆賊! 星!」と叫ぶと、懐から短刀を取り出し、逃げようとする星の腰、腹、そして心臓を突き刺します。
腹を刺したとき「波でも打ったように血をかぶって、私の顔から腕、胸のあたりは血だらけになった」と、後に伊庭は供述しています。
星をめった刺しにした伊庭はその場で取り押さえられ、警察に引き渡されています。

言論を暴力で封じる卑劣なテロ行為であったにもかかわらず、一部の有識者は伊庭の行為を擁護する発言を残しています。
星の生前、星を「公盗」として攻撃していた毎日新聞や、その言に影響を受けていた読者たちは伊庭に拍手を送りました。
幸徳秋水も「万朝報」で「暗殺は誠に罪悪なり。しかれども、彼(伊庭)をして絶望せしめたるの社会は一層第なる罪悪にはあらざるか」「吾人は恐る、社会の腐敗堕落が今日の勢にして、滔々底止する所なくんば、独り一の暗殺者を出すに止まらずして、将来多くの虚無党を出し、多くの無政府党を出すに至るやも、未だ知るべからず」
秋水の、このまま政治の腐敗堕落が続けば、多くの人々が政治への興味関心を失ってしまう、暗殺よりもそのことのほうが恐ろしいという指摘は、100年後の日本社会を極めて的確に言い当てています。

伊庭の裁判は同年9月2日に第一回公判が行われ、9月10日には判決が下るスピード裁判でした。
検察の求刑は死刑でしたが、裁判所は謀殺は認めた上で酌量減軽して無期徒刑を宣告。傍聴人たちは「死刑じゃなくてよかった」と伊庭の顔色を覗き見ますが、本人は「泰然自若、喜憂面にあらわれざりき」と当時の新聞は伝えています。

※参考資料:「伊庭想太郎公判録」、「刺客伊庭想太郎公判始末」、「近世人物評伝第一編」、「東京市疑獄史」、「「続・史談裁判」、「毎日新聞」、「万朝報」

星亨肖像(出典:「近世名士写真」)

 

星亨を暗殺した伊庭想太郎