危機感をつのらせた青年将校たちの反乱
1936(昭和11)年2月26日、のちに西南戦争以来最大の国内事件と呼ばれる2.26事件が起こりました。陸軍の青年将校らが、約1,500人の下士官兵を率いて、時の首相をはじめとする重臣たちを襲撃。「昭和維新政府」を樹立しようとした、クーデター未遂事件です。
この事件によって、高橋是清 (大蔵大臣)、斎藤実 (内大臣)、渡辺錠太郎 (教育総監・陸軍大将)らが死亡。海軍大将だった鈴木貫太郎は重傷を負いました。同様に命を狙われていた総理大臣の岡田啓介は、首相官邸を襲撃されるも、難を逃れています。
青年将校たちがなぜ、武力を使って時の首相や重臣たちを抹殺し、自分たちが思い描く軍部主導の国家を作ろうと考えたのか、その目的と想いが、彼らの手による「蹶起趣意書(けっき・しゅいしょ)」に記されています。
彼らは「蹶起趣意書」において、日本は万世一神たる天皇の下、明治維新を成し遂げ発展を続けてきた。しかし、最近は日本を貶める連中が国を乗っ取っている、そう主張しています。当時の元老、重臣、軍閥、財閥、官僚、政党……彼らが日本をダメにしている、それが彼らの思いだったようです。
そのような状況の中で、ロシア、中国、イギリス、アメリカなどの海外列強と「一触即発」が起こったら、「此の神州ヲ一擲破滅二堕ラシムルハ火ヲ見ルヨリモ明カナリ(日本はめちゃくちゃに破壊されてしまうの意)」と訴えています。
ゆえに、邪悪な悪だくみをしている奸臣は、武力をもって除かなければならないと訴えています。
農村部を襲った未曾有の不況
青年将校たちがここまで思い詰めるに至った背景には、昭和初期の日本の暗い時代背景がありました。
1914(大正3)年から1918(大正7)年にかけて起こった、第一次世界大戦は、世界的な船舶不足による海運業・造船業の好調などによって、日本に戦争景気をもたらしました。
世界列強の仲間入りを果たした日本国内には、平和や自由を謳歌する風潮が広がっていきました(大正デモクラシー)。
しかし、その栄華も長くは続きません。大戦後、世界は経済恐慌に見舞われ、その影響は日本にも押し寄せてきます。たちまち大不況に陥る日本。加えて、1923(大正12)年には関東大震災が起こり、不況はますます深刻化していきます。
苦しい時代は続きます。1927(昭和2)年には、大金融恐慌が起こり国内の銀行が軒並み休業・倒産します。
なんとかこの金融恐慌を乗り切った日本に、1929(昭和4)年10月24日、ニューヨークのウォール街発の世界大恐慌が襲います(暗黒の木曜日)。当時、日本の主力輸出品は生糸でした(総輸出品の4割を占めていた)。そのうちの9割をアメリカに依存していたため、その打撃は深刻でした。
この1929年の大不況は、翌年、国内の農村部に大打撃を与えます。
生糸価格の暴落は他の農村物価格の下落を招き、農家の生計が破綻します。当時、農家の4割が養蚕を複業としていたにもかかわらず、輸出生糸の価格が暴落。生糸の販売価格は6割以上も下落してしまいます。貴重な現金収入源を絶たれた農家は、たちまち苦境に陥ります。
加えて農家にさらに追い打ちをかける出来事が起こります。
1930(昭和5)年10月2日、当時の浜口雄幸内閣は、米の収穫予想を発表。過去5ヵ年平均と比較して12.5%増の豊作とアナウンスしたため、この豊作予想によって米価が大暴落してしまいます(豊作飢饉)。
悪いことは重なるもので、1931(昭和6)年には一転して大凶作。特に北海道・東北地方の飢饉は重く、身売りや欠食児童が大量に発生しています。この農業恐慌は以降も続き、1929年の米価を100とした場合、1930年は70.5%、1931年に至っては57.6%で、100%を超えたのは1935(昭和10)年という、苦しい時代でした。
2.26事件を起こした青年将校たちの多くは地方の農村出身者でした。自分の親兄弟たちが飢餓に見舞われている、食う米もない、そんな状況に「国家は危機に瀕している」との思いを強くした、と言われています。
1930年代なかばの陸軍内部での政治的対立も事件勃発の背景にありました。
当時、天皇中心の革新論を唱え、元老や重臣たちを強く排撃する「皇道派」と呼ばれるグループと、陸軍全体の統制を強化し、その組織的動員によって国土国防国家を目指す「統制派」との間で、激しい権力争いが行われていました。
2.26事件を起こした青年将校たちは、「皇道派」の理論に影響され事件を起こしています。北一輝の思想から影響を受けた急進的な青年将校たちが皇道派に集まっていったと言われています。
内大臣、大蔵大臣など要人が死亡
1936(昭和11)年2月26日の夜明け頃。この日の午前8時過ぎから都内には雪が降っていますから、大変な寒さであったことでしょう。
将校らは歩兵第1連隊、歩兵第3連隊、近衛歩兵第3連隊、野戦重砲兵第7連隊などを主力に、決起します。向かった先は下記です(※カッコ内は襲撃目標)。
・総理大臣官邸(岡田啓介総理・義弟の松尾伝蔵が死去/岡田総理は無事)
・内大臣私邸(斉藤実内大臣・即死)
・大蔵大臣私邸(高橋是清大蔵大臣・即死)
・教育総監私邸(渡辺錠太郎教育総監・即死)
・侍従長官邸(鈴木貫太郎侍従長・重傷)
・警視庁
・伊藤屋旅館別館(牧野伸顕前内大臣・避難し無事)
・陸軍大臣官邸(川島義之陸軍大臣に「蹶起趣意書」を読み上げる)
襲撃後、将校らは日本の政治・軍事の中枢だった、永田町や三宅坂一帯を占拠します。
陸軍大臣の川島義之大将は、午後3時30分に決起部隊に下達します。その告示の第2項には「諸子ノ行動ハ国体顕現ノ至情二基クモノト認ム」(彼らの行動は、国を思ってのことである)とあり、この段階では決起部隊に有利に事態は進んでいたように見えます。
事態が一変するのは内大臣・斉藤実ら重臣たちが殺害されたと知った天皇が激怒してから。天皇は決起部隊を「叛乱部隊」とし、自ら近衛師団を率いて討伐するとさえ言ったとされています。天皇中心の国家を作ると宣言して立ち上がった彼らでしたが、当の天皇から「叛乱部隊」と名指しされることになります。
以後、時系列でご紹介します。
・27日午前8時50分、東京市内に戒厳令が施行
・28日午前5時8分、「叛乱軍は原隊に帰れ」と命じる奉勅命令
・29日午前8時「下士官二告グ」のビラが撒かれる
・29日午前8時50分戒厳司令部内特設放送室から帰順勧告「兵に告ぐ」のラジオ放送が繰り返し流される
・29日午後1時前、一部を除いて反乱部隊が帰順
・29日午後3時、戒厳司令部が事件の終結を宣言
2.26事件は事件発生から4日後の2月29日、決起部隊の帰順という形で幕を閉じます。この事件に参加した兵士たちは、自分たちが「反乱兵」とされているとは、誰一人思っていなかったといいます。
事件後、緊急勅令によって特設陸軍軍法会議が設置されます。「一審制、上告なし、非公開、弁護人なし」という異例の軍法会議によって、反乱軍の将校たちは軍人勅諭に背き、国体を汚したと天皇に断罪されます。国を憂いて決起したその心情や動機などは一切与されず、被告たちの陳述時間はわずか半日〜1日と短い時間で一方的に有罪の判決を受けています。また、彼らに大きな思想的な影響を与えた北一輝やその側近である西田税も、事件の黒幕とみなされ死刑に処されました。
この短期間で事件を処理しようとする方針の裏には、国民の軍部への不信感を一掃することにあったと言われています。
以後、危機感をつのらせた日本政府は、後継の廣田内閣が思想犯保護観察法を成立させ、思想犯の取り締まりを強化していきます。
※参考文献「図説 2.26事件」(河出書房新社)/「歴代内閣・首相辞典」(吉川弘文館)/「もういちど読む 山川日本近代史」(山川出版社)/「東京日日新聞」ほか