伊藤を貫いた3発の銃弾
日露戦争に勝利した日本は、1905年(明治38年)11月17日、日本は韓国との間に第二次日韓協約を結んだことにより、韓国に日本政府の代表者である統監を置くことが決定、初代統監に伊藤博文を韓国へと送ります。
続いて1907年(明治40年)7月24日には第三次日韓協約を締結。第二次日韓協約で韓国の外交権を手に入れたことに続いて、内政にも強い影響力を持つようになります。
日韓併合へのお膳立てをすべて整えたのち、1909年(明治42年)6月、伊藤は韓国統監を副統監の曾根荒助に譲り、日本に帰国して枢密院議長となります。
同年10月、伊藤は韓国併合についてロシアに事前の了解を得るため会見を取り付けます。
10月18日に大連に着き、20日に旅順、21日に奉天、25日に長春と漫遊した後、10月26日午前9時にハルビンへと至ります。
この場で、ロシアの大蔵大臣ココフツェフの出迎えを受け、ロシア軍隊の閲兵を終えると各国領事と挨拶をし、さらに出迎えた日本人たちの方へ向かおうとした矢先、参列者の後方から躍り出た男が7連発のブラウニング式拳銃を発射。3発が伊藤の身体を貫きました。
1発目は右上膊中央外面からその上膊部を穿通(右腕のひじから肩の間を貫通)、第7肋骨に向かい水平に射入して左肺内で止まりました。
2発目は右ひじ関節外側から胸膜を穿通し左季肋の下に留まり、3発目は上腹部の中央に右側から射入して左直腹筋の中にとどまったと、当時の検案書に記されています(小山医師検案書)。
これらの傷を負った伊藤はブランデーをふた口飲んだ後、30分後に絶命しました。
「そうか、馬鹿な奴だ」
その場でロシア官憲によって逮捕された銃撃犯の名は安重根(当時32歳)。事件前日に安とともに行動をともにしていた3名とともに取り調べを受け、いずれも韓国籍であったために日本の官憲に引き渡され、裁判にかけられました。
満州日日新聞社が発行した「安重根事件公判速記録」などに、この事件の公判の模様が詳しくまとめられています。
裁判官は真鍋十三、検事は溝淵秀雄、安の弁護人は関東州弁護士会の水野吉太郎と鎌田正治が務めました。
第1回の公判は1910年(明治43年)2月7日。以下、同月8日、9日、10日(論告)、12日(弁護)、14日(判決)と、公判は連日にわたって開かれています。
傍聴席の定員は200名でしたが連日満員、日本人のほかロシアの大連総領事や韓国の弁護士も膨張したと記録に残っています。
安がなぜ伊藤を射殺したのか。裁判で語った理由は一貫して「日本が韓国を占領したから」というものでした。
日露戦争後に締結された第二次日韓協約、第三次日韓協約は兵力で圧迫して締結したもの。これらの条約は韓国皇帝が認めたものでも韓国総理大臣が同意したものでもなく、韓国国民を欺瞞したものである。そこで、伊藤を亡き者にして韓国の悲嘆を救わねばならないと考えたと述べています。
裁判の場において安は落ち着き払った態度で臨み、裁判官から「逮捕された際には逃亡しなかったが逃げるつもりはなかったのか」との問に対しても「自分は韓国独立、東洋平和のためにしたことであって悪事をしたのではない。二月必要はない」と答えています。
一方、共犯者とされた他の3名は、供述が二転三転したり、余計なことは話すまいとしたりと、安とは態度がだいぶ異なっています。
検事は日本の刑法にのっとって、安に死刑を、他の3名には殺人の予備または幇助として懲役刑を求刑しました。
判決はこの求刑どおりに下され、安には死刑を宣告。1910年(明治43年)3月26日に旅順監獄で執行されています。
韓国統監の任に伊藤が着いた後、日本は韓国の発展のために多大な経済援助を行いました。
産業の奨励、教育の刷新、交通網の整備など、多大な人命と軍資を供したものの、伊藤は凶弾に倒れ命を落としました。
伊藤が自らを襲った凶漢が韓国人であり、すでにロシアの官憲によって逮捕されたことを聞いた伊藤が遺した最後の言葉は「そうか、馬鹿な奴だ」でした。
当時、伊藤に随行しており、伊藤を狙った流れ弾に当たって負傷した当時のハルビン総領事の川上俊彦は後年「これがため日韓合併の機運を早めた結果となった」と述べています(「伊藤博文公」国民新聞社編)。
この言葉が示すとおり、伊藤暗殺からわずか10ヵ月後の1910年(明治43年)8月22日、韓国併合ニ関スル条約が締結。韓国は日本と併合することになります。
※参考資料:「続史談裁判」/「近世暗殺史」/「幕末明治大正図版80年史」/「明治大正流血史談」/「週刊サンデー 第64〜65号」/「安重根事件公判速記録」/「東京朝日新聞」/「伊藤博文公」
伊藤を暗殺した安重根。
明治42年10月16日、ハルビンの地に降り立った伊藤を捉えた写真。この数分後に暗殺される。
伊藤の暗殺現場全景。向かって左手側から襲ってきた凶漢の手によって命を落とした。
伊藤の国葬は日比谷公園で行われた。