政治ドットコムトピックス平民宰相・原敬首相はなぜ暗殺されたのか? 今も残る大いなる「謎」(1921年11月4日)

平民宰相・原敬首相はなぜ暗殺されたのか? 今も残る大いなる「謎」(1921年11月4日)

投稿日2020.11.16
最終更新日2020.11.16

1921年(大正10年)11月4日、平民宰相と親しまれた原敬首相が右翼の暴漢に襲われ暗殺されます。
一国の首相を凶漢の手による暴力によって暗殺する、このような一大事件であるにも関わらず、この事件にはいまだに解明されていない謎が多いことで知られています。
この事件の概要と、残された謎について見てみましょう。

原敬首相暗殺事件の概要

1921年(大正10)年11月4日の午後7時20分頃、原敬首相は京都で開かれる政友会の京都支部大会へと向かうべく、東京駅へ到着します。
一等待合室でしばしの間休憩した後、電車の発車時刻が迫ってきたために東京駅長の案内で見送りに来た各大臣とともに待合室を出て、中橋徳五郎文部大臣と談笑しつつ改札口へと進んだ頃、突然、群衆の中から飛び出した絣の着物に鳥打帽をかぶった24〜5歳と見える書生風の男性が、刃渡り約15センチの短刀を原首相の右胸に深々と突き刺しました。
原首相は一言も発することもないまま、どうとその場に倒れ込みます。
見送りに来ていた各大臣はもちろん、東京駅長、その場にいた駅員ともに突然の出来事に狼狽するばかり。
一方、原首相を急襲した暗殺犯は、悠々と少しも騒ぐことなくその場に立っていましたが、駅内警戒の任に当たっていた越野某警手が駆けつけ、同じく警備の任に着いていた警手5名との協力の下に捕縛。日比谷警察署に連れていかれました。

越野某警手への事件直後のインタビューが残っています。

「私は例の通り雑踏する人々を警戒しておりました。するうちに、ふと見ると首相が変な男に襲われて倒れたのですぐ馳せつけましたが、そのとき首相は何事も仰っしゃりませんでした。私はすぐに気が付いて、凶漢の逮捕に立ち向かいましたが凶漢は大言壮語しつつ非常にものすごい形相をしておりました。
その際、警手のひとりがやにわに凶器をもぎ取ろうとしたところが、凶器に手を触れ手をだいぶ怪我しました。この動作に驚いて凶漢も凶器を取り落しましたが、なおも恐ろしい形相をしてしかも以前堂々としておりました。
かくて凶漢は警官の手に渡されました。私は凶漢を警官に渡して他の警戒の任に当たりましたが、この凶漢の仕業は実に電光石火でその早いことは言うこともできません。
とにかくこういう大事件の起こったことは甚だ相すまぬことで私もびっくりしてこれ以上言うことはできません」(「東京朝日新聞」1921年11月5日号)

深手を負った原首相はすぐに現場にいた救急隊員によって駅長室に担ぎ込まれます。
駆けつけた鉄道省付の竹中某医師を中心とした医療チームによって懸命の処置を受けますが、傷は右肺部から心臓に達しており、数分後に絶命しました。
享年65。遺体はその日の午後8時20分に霊柩車に載せられ、当時芝公園にあった私邸に移されています。

中岡艮一はなぜ原首相を暗殺したのか

凶行に及んだ暗殺犯の名は中岡艮一(なかおか・こんいち)。大塚駅で転轍手(電車の方向を切り替える職人)を務める青年でした。
残された資料によれば、中岡は日頃から野党が出した普通選挙法に反対するといった原首相の政治信条に対して不満を抱えていたなかで、日本人731人も巻き添えとなったロシアの住民虐殺事件「尼港事件」や当時、世間を賑わせていた多くの疑獄事件をきっかけに、原首相の暗殺を決意したとされています。
また、同じく政権に対して批判的な意見を持っていた上司の橋本栄五郎と接する中で反政府的な考えを蒸留していったとの説もあります。
しかし、橋本とのやり取りの一例として残されているエピソードは一国の首相を暗殺するような大事を決意するにはある意味で間が抜けており、後述するこの暗殺事件への疑惑と合わせて、一概に信用することは難しいものがあります。

たとえばこのような逸話です。
事件の1ヵ月前、中岡と上司・橋本栄五郎との間で政治談義が行われました。橋本は原首相の政治を批判、「今の日本には武士道精神が失われた。腹を切る(※実際の切腹ではなく責任を取るという意)と言うが、実際に腹を切った例はない」というような主旨の発言をします。
これを受けた中岡は「腹」と「原」を勘違いし、「私が原を斬ってみせます」と述べたとのこと。
自身の一生も左右する大事件を決意するには、あまりに乱暴な逸話と言わざるを得ません。
このエピソードは後に行われた中岡の裁判でも取り上げられたらしく、橋本は殺人教唆の疑いで逮捕され、裁判に掛けられます。
検察からの求刑は懲役12年でしたが、判決では無罪となっています。
中岡の裁判は異例のスピードで進行していきます。
取り調べの調書もほとんど残されていないために、その審理には謎が多く、中岡がなぜ犯行を決意したのか、背後に協力者や協力団体がいたのではないかといった疑問についても正確なことはわかっていません。

中岡に対して検察は死刑を求刑しますが判決は無期懲役。
以後、東京控訴院、大審院へと審理の場は移りますが、判決は維持されたまま無期懲役で確定します。
不可解な謎はその後も重なり、無期懲役とされたものの、中岡は3度の減刑の対象となり事件から13年後の1934年には釈放されています。
釈放された当時、すでに日本は戦時中でした。
中岡も兵役に取り立てられますが、安全な軍司令部付となっており、これは何らかの政治的な背景がこの配属に影響を及ぼしているのではないかと、研究者の間で言われていますが、確証はありません。

現在の事件現場

この原首相暗殺事件の現場をより詳しく説明すると、東京駅構内の手荷物受取所の前面にある三等切符売場15番の前でした。
この場所は現在、誰でも行くことができ、誰でもその場所を確認できるようになっています。
現在は東京駅の丸の内南口の切符売り場(北東面左端)となっている事件現場には、原首相が斃れた場所には、近くの壁に事件の概要を記したプレートが、床には円の内部に6角形という形をあしらったマークが埋め込まれています。
大きな歴史の転換を目の当たりにしたその場所を、一度ご覧になってみてはいかがでしょう。

※参考資料:「東京朝日新聞」1921年11月5日〜11月9日号

第19代総理大臣を務めた原敬

 

原敬を暗殺した中岡艮一

 

原首相暗殺を伝える「東京朝日新聞」大正10年11月5日号

 

東京駅構内には暗殺現場を示すレリーフが現存する