政治ドットコムトピックス明治時代にも流行病が大発生 – コレラと明治人はいかに戦ったのか

明治時代にも流行病が大発生 – コレラと明治人はいかに戦ったのか

投稿日2020.2.19
最終更新日2020.02.20

新型コロナウイルスが全世界的に猛威を振るっています。2020(令和2)年2月10日現在も、新型コロナウイルスへの対応のために横浜に停泊している客船もあり、国内での感染拡大防止のために国を挙げて努力を続けている状況です。
日本の歴史を振り返ると、全国で感染病がたびたび大流行しています。そのなかから、江戸時代末期から明治時代、そのあまりの致死率の高さから「コロリ」「鉄砲」「見急」と呼ばれた、コレラの大流行についてお伝えします。

江戸も巻き込み10万人以上の死者が発生

日本で初めてコレラの感染が確認されたのは、1822(文政5)年8月14日のことでした。「日本の細菌学の父」と呼ばれる北里柴三郎が、1887(明治20)年に、第6回万国衛生会議で行った口頭発表をまとめた「日本におけるコレラ」によると、
「長崎とジャワ島との間を往復する一隻のオランダ船が、この伝染病を最初にわれわれのもとへもたらした。長崎は当時の日本において異国人、すなわち清国(中国)人とオランダ人と貿易取引を行うただひとつの都市であった。コレラはまずそこで発生し、長崎を取り囲む日本の南西部に広がったが、数ヶ月後に日本の内陸部へと到達し、間もなく大流行となった」
と記しています。

特に長崎での流行は激しいものがあったようで「ほぼ全ての家庭がその病に苦しみ、家族全員がその犠牲に陥るケースもあるほどであった」と、その惨状を伝えています。

不幸中の幸いというべきか、当時は箱根の関所が機能しており、九州で発生したコレラが江戸に波及することはなく、収束へと向かっています。

ところが日本国内で2度目のコレラ大流行となった1858(安政5)年にはそうはいきませんでした。
長崎で発生したコレラは数ヵ月の後に江戸へと至り、8月下旬から数ヵ月で10万人以上の死者を出したと伝えられています。加えて江戸にとどまらず、京都・大阪にも被害が拡大。深刻な打撃を与えています。

このときの大流行はとどまるところを知らず、「1859年から1861年にかけて、この流行は時には局所的に、時には国内至るところで発生し」たと、先述の「日本におけるコレラ」に記述があります。

場所によっては致死率8割

この2回の大流行時、正確な罹患数と死亡者数は定かではありませんでした。ある程度、具体的な数字が記録されるのは1877(明治10)年になってからのようです。
この年の9月8日、厦門(清国)を出発した船が長崎に到着しました。この航海の途上でひとりの水夫が死亡。長崎の外国人墓地に埋葬されます。

それからしばらくして、船と陸との間の外国人の往来を世話していたひとりの日本人水夫が、病気になったと思ったらその日のうちに亡くなります。コレラの発生でした。
しばらくしてコレラは長崎を超えて九州全土に広がります。折悪しく、九州の一部では当時、「西南戦争」が起こっていました。この西南戦争の混乱が、より一層、感染拡大に拍車をかけました。

「日本におけるコレラ」には、この際の罹患者数と死亡者数が掲載されています。
「この時の流行では、日本全体で13,710人が病気にかかり、7,967人が亡くなった(致死率58%)。
とりわけ長崎や横浜のようなコレラがひどい猛威をふるった場所では、住人10,000人に対し61人の死者が出て、致死率は80%にのぼった。
男性の患者数は女性の3倍に及んでいる(男性 10,214:女性 3,496)」
場所によっては致死率8割超え。「コロリ」とあだ名されたその恐ろしさが、決して大げさではなかったことを物語っています。

この大流行を受けて、内務省は急遽「虎列刺病予防法心得」(8月27日付、達乙第79号)を府県に発しています。たとえば、その心得の付録「消毒薬及ヒ其方法」中の「第3、便所芥溜下水等」では、「(下水溝渠ハ)日々之ヲ疎通シ水ヲ灌テ洗浄スヘシ、甚シク汚穣ノ滞塞シタル所ハ石炭酸ヲ注クヲ良トス」と記し、コレラなどの伝染病予防のための下水渠の掃除を推進しています。

1878(明治11)年〜1879(明治12)年の流行時の数字も残されています。

「1878年にコレラの流行はあらたに猛威を奮い始めたが、かつてほどひどいものではなかった。日本全体では患者数967人、そのうち死者が275人であった。
1879年、この伝染病は3月はじめに四国の松山で発生し、九州の大分へと至った。流行の最終地点は、そこを超えて神戸、大阪、横浜、東京へと至り、ついには本州全域(日本全体)に広がった広域流行の出発地点である九州である。それは近年で最大の大流行だった。

162,637人が罹患しそのうち 88,319人が男性、74,318人が女性だった。死者数は105,786人(65%)にのぼった。流行に襲われた町や村の総人口は16,024,106人であるため、罹患率は 1.015%ということになる」(「日本におけるコレラ」より)

ついに死者が10万人を超えました。その致死率は65%にも達しています。この猛威はその後も続き、1886(明治19)年にも10万人を超える死者を出しています。

この1879年の大流行には、次のような逸話があります。

西日本でのコレラ大流行を受けて、日本当局は1879年7月にドイツの汽船「ヘスペリア号」に対して検疫を要求するも、ドイツ船は無視して出航。砲艦の護衛のもと横浜港に強行入港します。(ヘスペリア号事件)

この年は横浜・東京はじめ関東地方でもコレラが大流行し、患者は全国で約16万8,000人、コレラによる死者は1879年だけで10万400人にも達しています。
国民は「コレラが流行していた清国から来たヘスペリア号のせいで、関東で被害が拡大してしまった」と捉え、「すべては海外列強と結んだ不平等条約のせいだ」との認識を広めるきっかけとなり、条約改正要求の高まりをもたらした原因のひとつとなったと言われています。

ちなみに、日本がようやく海港検疫権を獲得するのは、1894(明治27)年に陸奥宗光外相の下で結ばれた日英通商航海条約などの改正条約が発効した1899(明治32)年まで待たなければなりませんでした。

決め手は「濃厚石炭酸水」?

1885(明治18)年に当時の内務省衛生局が発行した「虎列刺病流行紀事」という資料が残されています。こちらには、当時の政府がどのようにコレラに対抗しようとしたのか、記録されています。

たとえば明治18年8月29日、長崎港、横浜港、赤間関(山口県)に対し、「船舶検査規則実施為致候條此旨告示候事(船舶検査をするように)」と、内務卿伯爵山県有朋名義で発しています。
同年9月8日には「消毒法ヲ施ス可シ」として、消毒を必須とする船舶として、次の船舶を指定しています。

・航海中に数名の下痢病者またはコレラの疑いがある患者が発生した船舶
・コレラ患者の死者が出た船舶で、消毒が不十分だと認められるとき
・コレラの流行地から、古着やボロ、その他コレラが伝播する恐れのある荷物を積んでいるとき
・原因不明の死体を積んでいるとき

では当時、どのような消毒法が行われていたのか、その一端が、明治15年6月に布告された「第31號布告虎列刺病流行地方ヨリ來ル船舶検査規則」に見られます。

第4-1 コレラによる死者、もしくは患者に直に接する衣類、手ぬぐい、寝具等は焼却するか、濃厚石炭酸水に浸すか、または熱気煮沸等、適当な方法で消毒する(※意訳)
この「濃厚石炭酸水」は、注釈でこのように説明されています。

・結晶石炭酸四分ヲ水百分二溶解シタル者

現代における「消毒用フェノール水」を指すようです。この措置がどれほどの効力を発揮したのか、いまとなっては知るすべはありませんが、当時、濃厚石炭酸水への信頼は厚く、コレラ患者の発生した船室や厨房の消毒にも「結晶石炭酸水ヲ以テ十分二洗滌」し、かつ「亜硫酸瓦斯ノ蒸留法ヲ行ウベシ」と書かれています。

また、コレラによる死者や患者がいない船舶の場合にも「四十八時間以内(消毒二必要ナル時間内)適宜碇泊セシメ消毒法ヲ行ウベシ」と定めています。
当時の防疫知識を総動員して対応にあたってはいたものの、コレラの猛威には対抗できず、1886(明治19)年にも、10万人を超える死者が出ています。
以後、1890(明治23)年、1895(明治28)年、とたびたび国内で大流行し、ようやく落ち着くのは1920年代に入ってからのこととなります。


■参考資料
北里柴三郎「日本におけるコレラ」/内務省衛生局「虎列刺病流行紀事」ほか


「虎列刺退治」
コレラを「虎(頭)」「狼(胴)」「狸(睾丸)」に模したもの。衛生隊がこの化け物に消毒薬を噴霧している。


「日本の細菌学の父」北里柴三郎


「虎列刺病流行紀事」に当時の対応が記されている(明治18年発行)