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政治ドットコムインタビュー政治家インタビュー立憲民主党・中谷一馬議員に聞く!母子世帯・貧困家庭で育った私が国会議員になってデジタル政策を進める理由

立憲民主党・中谷一馬議員に聞く!母子世帯・貧困家庭で育った私が国会議員になってデジタル政策を進める理由

投稿日2023.12.19
最終更新日2023.12.22

日本で初めてChatGPTが作成した質問を国会で行い、もっとデジタルを活用すべきと主張した立憲民主党の中谷一馬議員(以下、中谷議員)。

母子世帯の貧困家庭で育ったという中谷議員がなぜ政治家を目指すことになったのか、また、野党随一のデジタル政策通と認知されるに至ったのはなぜなのか。そして、中谷議員が実現したい社会について聞きました。

(聞き手・文責:株式会社PoliPoli 中井澤卓哉)

中谷一馬議員インタビュー

中谷 一馬 氏
1983年生まれ。衆議院議員(2期)
母子世帯・貧困家庭で育ち、中卒で社会へ
IT企業(現・東証プライム)創業役員、
菅直人元首相秘書などを経て、神奈川県議会議員(1期)
2017年に衆議院選挙で初当選
2020年にデジタルハリウッド大学大学院をMVP(首席)修了

(1)母子世帯の貧困家庭で育ち、感じた社会構造の問題

ー国会議員の前は、県議会議員を務められていましたが、そもそも政治家を志したきっかけは何だったのでしょうか?

政治家を志したのは幼少期の体験が大きく関係します。

私は母子世帯の貧困家庭で育ちました。母親が離婚する前も大変な家庭環境で、父親の暴力に悩まされる日々でした。私が3歳くらいの時、父親からの暴力で血まみれになった母親の前に身を挺して、「これ以上は叩かないであげて!」と庇った記憶もあります。

小学生の時に両親が離婚し、親戚を頼りながら様々な場所へ引越しを繰り返しました。何度も転校したことで、常に友達がゼロからのスタート、チャレンジングな環境でした。東京から大阪に引っ越した時には関西弁が話せず、覚えるまではいじめというよりは村八分状態。

そのような生い立ちで育ったので、幼い頃から人とのコミュニケーションを大切にしたり、集団の中で何を求められているかポジショニングを考えたり、相手の文化を大切にする多様性を大切にして生きてきました。また、住んでいた地域は、治安が悪くやんちゃな人々が多かったため、日々を生きていくためには強くならなければなりませんでした。

一方、私の母親は非常に働き者で、朝から晩まで1日中働いて、私や妹たちを養おうとしてくれました。しかし、無理がたたり、体を壊して寝込んでしまい、私は家計を支えるために高校には進学せずに中卒で社会に出ました。当時、母親はこんなに頑張って働いているのに、なぜうちは貧乏なんだろうと思っていました。大人になってから知ったことですが、ひとり親家庭のお父さん、お母さんの8割程度が働いているにも関わらず、ひとり親世帯の約半数は貧困状態にあります。これは、本人たちの努力の問題以上に、社会的な構造に欠陥があると思います。

こういった生い立ちから、社会に対する課題を感じていたのが政治家を志した原点です。

中谷一馬議員インタビュー

ーそのような家庭環境から、政治家を目指すのは並大抵のことではなかったのではないですか?

真剣に政治家を目指すようになったのは18歳の頃です。

中学卒業後、家計を支えようと働きはじめましたが、中卒ではなかなか雇ってもらえるところがなく、また自分自身も未熟で仕事が続かず、引越し業者のスタッフやガソリンスタンドの店員など、さまざまな仕事を転々としました。

当時、高校進学率は95%を超えていましたが、自分の周りには自分と同じ中卒の仲間がたくさんいて、18歳頃まではその時が楽しければいいや、という刹那的な考え方で生きていました。

しかし、社会が悪い、政治が悪い、とみんなただ文句を言って何も行動しないことへの違和感があり、またゴーギャンの「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」という絵に出会った時に、自分はこのままでいいのか、と考えるようになりました。その時、漠然と自分が置かれている環境はおかしいし、この環境をより良い方向に変えることが世の中のためになるのでは、と思いました。そして政治家になって世の中を変えたいと考えるようになりました。

その後、バーの経営に携わり、初めてしっかりとお金が稼げるようになりました。経済的に自立し、コンビニの募金箱にお金を入れた時に得た感覚は、自分はケチだったのではなくて、人に何かを与えられるほど何も持っていなかったんだという気付きでした。

そして、生活保護を受けている時にボランティアをすることが難しかったという自身の原体験を踏まえて感じたことは、自分のことがしっかりできていないと、世のため人のために働くことができないという現実、また、利他的な行動ができる者がやはり最高にかっこいいのではないかという理想像を鮮明に抱くようになりました。

世のため人のために生きるにはどうすればいいか、と考えた時に改めて自分が政治家になって、おかしな世の中を変えたいと思いました。

当時、周囲からは、中卒で政治家になるなんて無理だと馬鹿にされましたが、働きながら通信制の高校に通い、21歳で卒業。その後、夜間の専門学校に入り、柔道整復師の資格を取得しました。また衆議院議員になってからは夜間の大学院でデジタル政策を学び、首席で修了することができました。

中谷一馬議員インタビュー

ーその後はどういった経緯があったのでしょうか

政治家になるにはどうすればいいのか分からなかったので、まず友達が在籍していた自民党学生部に勧められて入会しました。学生部ではさまざまな勉強をさせてもらいましたが、そこで感じたのは、自民党は組織として完成し過ぎていて、自分のようなどこの馬の骨ともわからない者が国会議員になって活動できる機会はなかなかないだろう、ということでした。

自民党にはたくさんの国会議員がいますが、多くが政治家の家系の二世三世、官僚・医師・一流企業などの超エリートコースの出身者、芸能・スポーツ・経営など社会で活躍した著名人などで、自分のような叩き上げの人間が国会議員になっている事例は非常に少ないと感じました。

私が自民党での政治キャリアを想像した時、新卒から議員秘書を10年間やって市議会議員になることができれば上出来で、次の10年間で、市議会議員を務めて県議会議員になれたならば、余程周囲の信頼を得られたということですから大成功。さらに10年間程度、県議会議員をやって国会議員になれたならば、奇跡に近い。そこから田中角栄さんのように総理大臣を目指すのは夢のまた夢だろうと考えました。

そして、他党の学生部との交流を当時の事務局から認めてもらえなかった鬱積なども溜まっていましたので、仲間たちと共に自民党学生部を飛び出して「日本の政治をおもしろくする会」というインカレの学生団体を作りました。国会の第一線で活躍している議員と交流しながら、若者が政治に関わってもっと日本をよくしていくことを目指した会です。私は将来国会議員になって世界平和を実現するという夢を持っていましたので、当時の722人全ての国会議員事務所に連絡し「私たちに話を聞かせていただけませんか?」とお願いをして、泉健太さんや小川淳也さん、橋本岳さんなど100人くらいの国会議員がインタビューに応じてくださいました。

この活動の中で、泉健太さんの兄弟分だった村井宗明さんにお取り計らいをいただき、菅直人さんのインターン生として事務所に所属することとなりました。当時は柔道整復師の専門学校に通いながら、ダイニングバーの経営者として、また、IT企業の立ち上げメンバーとしても働いておりましたので、月500時間くらいは学業と仕事に追われる生活で、本当に忙しい日々でした。

専門学校卒業後は、政治の世界一本で議員を目指そうと決意をして秘書として働くことになりました。その後、2010年に菅直人さんが総理大臣になったタイミングで秘書を辞め、地元の神奈川県横浜市港北区に戻って政治活動をスタートしました。

「せっかく首相の秘書という大役を担えるのに、なぜ今地元に戻るのか」と引き止めてくれる人もいましたが、私は、お世話になった人から離れる時には、その人の一番調子がいい時に離れた方がいいと考えたんです。調子がいい時には自分の代わりに働きたいと思う人が自然と周りに集まってきますから、不義理にもなりませんので辞めるなら今だ、と思いました。

ーその後、東日本大震災や自民党への政権交代などがあったと思いますが、中谷さんの政治活動は順調だったのでしょうか?

神奈川県議会議員までの活動は順調でしたが、国会議員になるまでの道のりは決して順風満帆ではありませんでした。

2011年、民主党の公認候補として出馬し、当時最年少の27歳で神奈川県議会議員となりました。がむしゃらに働き、在職中にはその年に一番優れた政策を提言した議員としてマニフェスト大賞最優秀政策提言賞を受賞し、また、地方議員として初めて世界経済フォーラム(通称:ダボス会議)のGlobal Shapers(U33 日本代表)として活動させていただきました。

2014年、県議会議員の仕事にやりがいを感じていましたが、やはり国を変えたいという想いが強く、当時の選対委員長だった馬淵澄夫さんや県連幹事長だった滝田孝徳さんなどのお力添えをいただき、民主党の公認を得て衆議院議員選挙に立候補しました。この選挙は、情勢調査の結果を見ていた過程ではなんとか当選できると思っていましたが、結果は落選。南関東ブロックでは、公示日の直前に青柳陽一郎さんがいた神奈川6区と私の神奈川7区だけが民主党と維新の党の候補者が分裂した影響もあり、厳しい選挙戦となりました。

落選という結果は本当に辛く、5万人以上の方から信任をいただいたにも関わらず、その期待に応えられなかったという現実がとても辛く、本当に申し訳ない思いでした。

しかし、当選するまで諦めないと奮い立ち、落選した次の日から駅での街頭演説に立ちました。3年間浪人※生活をしましたが、当時はお金もなかったので、共に活動をしてくれていた仲間2人と一人36500円程度の家賃を支払いながら2LDKの家に3人で一緒にルームシェアしていました。

そして次戦の2017年衆議院選挙を迎えることになりましたが、小池百合子東京都知事が率いる希望の党から民進党の一部の候補者が排除されることとなり、私自身も希望の党の候補者と選挙で戦うことになりました。希望の党はとても勢いがありましたので負ける可能性が高いと思っていた選挙でした。しかしながら当時、枝野幸男さん、福山哲郎さん等が立憲民主党を立ち上げてくれて、受け皿としての期待が大きくなったこともあり、なんとか当選することができました。立党の英断には今でも心から感謝をしています。

※落選後、次の選挙を目指す状態を俗に「浪人」という
中谷一馬議員インタビュー

(2)初めてChatGPTで国会質疑を作成、デジタルが私たちの生活に与える影響

ー中谷議員といえば、ChatGPTを利用して国会の質問を作成したことで注目を浴びました。そもそもデジタル政策に対する関心のきっかけはなんだったのでしょうか?

神奈川県議会時代、政治のデジタル化が遅れていること、デジタルに詳しい政治家がいないことに気がついたことがきっかけです。

私が県議会議員になって初めての会議でパソコンを持参したところ、先輩議員からパソコンを持ち込むなんてけしからん!と厳しく怒られたことがあります。2011年当時の神奈川県議会では会議へのパソコンの持ち込みが禁止されており、党内の会議ですら認めてもらえない状況でした。当時20代の議員は自分だけで、30代の議員も少数しかおらず、議員のほとんどが中高年の先輩でした。メモは紙とペンでとるルールだと言われ、ITベンチャーで働いていた私にとってはジェネレーションギャップとカルチャーショックを痛感していました。また、パソコンの持ち込み禁止が一般社会と乖離した規則であるにも関わらず、当選回数が多い議員たちはこれがルールだから、と変えようとしませんでした。

こうした状況からデジタル対策はこれからの時代にとって必要不可欠であるにも関わらず、デジタルについて詳しい議員がほとんどいないことに気付き、ここがブルーオーシャンだと思いましたので、自分がデジタル分野の専門的知見を持つ議員になろうと研鑽を積み重ねました。

ーChatGPTを使った国会質問についてどのような反響がありましたか?

2023年3月の衆議院内閣委員会で、ChatGPTが作成した質問を岸田総理に投げかけ、答弁をいただきました。この質疑については反響が大きく、様々なメディアで取り上げていただきました。その際、肯定的な意見や批判的な意見など様々な意見をたくさんいただきました。

否定的な反応の代表的なもので言えば、世界一の発行部数を誇る新聞社が社説で、「AIで作った質問と答弁を基に、首相に質問した。国会質疑を会話とでも思っているのか。言論の府として、嘆かわしい。」と取り上げました。私はこの反応をとても興味深いと感じました。新しい技術が普及する際、「これは◯◯だからダメだ」とネガティブな理由を列挙して反発されることはよくあることです。例えば、今では誰もが当たり前に使っているGoogleやYahoo!などの検索エンジンも、普及し始めた時には「正しい情報が出てこない」と批判されていましたし、パソコンが普及し始めた時にも「文字が書けなくなる」との問題提起がありました。

私は、この記事を書いた人は、そもそもAIがなんなのかよく分からないけれど、自分の存在価値を脅かす可能性があると本能的に感じて、批判をしているのかなと想像しました。人は、「知らないこと」・「未知のもの」・「存在意義を脅かすもの」に対して生理的に恐怖心を持つことがよくありますので、批判したくなる気持ちは理解できますが、世の中の変化がどんどん速くなる中で「なんだかよく分からないから反対する」という姿勢ではいけません。コペルニクスが、天動説が主流の時期に地動説を唱えた時のように、物事の見方が180度変わってしまうことはいつの時代にも訪れますが、時の権威が、新しい技術に触れたことのない状態で、既知の知識の中でそれらしい論評をすると、時代のピントからずれていたとしても、あたかもそれが正しいかのように社会に拡まってしまい、そのことがイノベーション進化のスピードを阻害し、トップランナーから後退してしまいます。こうした観点で考えれば、特に経営者や政治家・著名人やメディア関係者など人に大きな影響を与える可能性がある者は、常に「無知の知」に向き合うことが大切です。ソクラテスが「無知の知」、つまり自分が知らないことを自覚することが大事なんだ、と言っていますが、まさにその通りだと思います。

分からないから、なんとなく不安だから批判するのではなく、「自分は○○についてよく分かっていない」ということにまず気づき、向き合って勉強しようと考えることが大切だと思います。

ー生成AIのリスクについてはどのように考えられていますか?

生成AIを使えば偽の情報や画像、動画を簡単に作ることができますが、ユーラシア・グループ※は生成AIによるフェイクニュースを2023年の世界の10大リスクの一つに挙げています。偽情報は拡散されやすく、また生成AIの精度が上がったことで真実とフェイクの見分けがより難しくなっています。

これまで日本は、日本語という参入障壁があったため、フェイクニュースからは比較的守られてきた環境があったと思います。FacebookなどのSNSで散見されてきた偽情報やなりすましなどの投稿も、日本語が変だとすぐに気が付くことができました。しかし生成AIの進歩に伴い、日本語の精度がもっと上がっていけば、偽情報を簡単に見破ることができなくなってくると思います。

また、マサチューセッツ工科大学(MIT)の調査によると、フェイクニュースは、実際にあったファクトニュースより、約6倍速く拡散するそうです。事実とは異なるニュースは目新しく、人々の感情を扇動する内容が多いことが理由だそうです。

こうした状況に対して、本来的には国会が率先して時代のニーズに対応した議論を行わなければならないわけですが、残念ながら国会では古い慣例慣習を振りかざす与党側の意向により、デジタル問題に関する資料の使用が国会質疑で認められないなど、時代の先端をいく議論をわかりやすく説明することが阻害されることは少なくありません。

※ユーラシア・グループは1998年に設立された、地政学リスクを専門に扱うコンサルティングファーム。毎年年初に「世界の10大リスク」を公表している。

例えば、先日も衆議院内閣委員会で偽情報や偽広告に関する新たな問題をわかりやすく説明するために、偽広告に顔写真などを悪用された著名人本人が配付を許可している当該偽広告についての資料や、メディアでも広く報じられている資料の配付を求めたところ、偽広告や偽情報は出典がわからず、どのような影響があるかわからないから資料の配付を許可しないという与党理事の意向を受け、委員長が配布を行わない決裁をしています。

しかしながら本来は全く逆で、国民の皆様がどのようなものかわからずに偽広告や偽情報に触れてしまうと騙されてしまう懸念があるため、本人から自分の掲載した広告ではないと確認の取れた偽広告に関しては、むしろその事例を国民に広く知って頂くことこそが詐欺被害等の抑止に繋がります。

これからの時代はAIとSNSの台頭により、エビデンスのない感情を煽るような情報が溢れ、気づかないうちに世論が誘導される危険性があります。

誰がどのように内容を精査するかという課題はありますが、民主主義を守るためには、シティズンシップ教育の推進や客観的なファクトチェックの仕組みが必要不可欠だと考えています。

中谷一馬議員インタビュー

(3)インターネット投票、世界平和ー中谷議員が成し遂げたいこと

ーもし中谷議員がデジタル担当大臣になったら、どんな政策を実現したいですか?

大きく3つあります。

第一に、インターネット投票の実現です。

2005年から、エストニアではインターネット投票を実施しており、技術的に実現可能です。

日本国憲法で保障されている参政権の行使について、身体的な条件、地理的な制約、コロナ禍のような有事など様々な要因によって投票所への移動に困難を有する者を含む全ての選挙人等の投票の機会を等しく確保することが重要です。

ネット投票は、若者のための政策と誤解されがちですが、エストニアで相対的に投票率が上がったのは高齢者です。立憲民主党では私が筆頭提出者となり、国会へ「インターネット投票の導入の推進に関する法律案」を提出するなど、投票のデジタル化に強い意欲を持っています。

第二に、国民が政治に参加できる双方向のプラットフォームづくりです。

今まさにPoliPoliが作ろうとされているかと思いますが、これは国でもやっていくべきだと考えています。国民がより簡単に政治に声を届けることができ、政治側がクイックにリアクションできる双方向のコミュニケーションをとることができれば、問題解決のスピードはもっと早くなるはずです。デジタル請願やデジタル署名などによって、より参政権を行使しやすくなり、多くの人が、自分達が動けば政治が変わる、という実感を得られるような体制整備を行っていきたいと思います。

第三に、あらゆる業界でのDXの推進です。

デジタル化の発展は、理想を突き詰めれば、人類が労働することなく、自動的にあらゆる物の生産とサービスの提供がなされる社会が実現されるという可能性に繋がります。

少子高齢化が進む日本においては、ビジネス、教育、医療、福祉、介護、防災、農林、水産、ものづくりなど生活に関わるあらゆる分野においてその発展が期待されます。労働人口が減少する時代において、業務の効率化や自動化を進め、人間は人間がすべき業務に注力することで、物質的な豊かさを作っていけると考えていますので、あらゆる業界でDXを進めてまいります。

ー最後に、中谷議員が政治家として成し遂げたいことを教えてください。

自分自身が母子世帯の貧困家庭で育った原体験から、世の中の「貧困」と「暴力」を根絶したい。そして「平和」で「豊かな」社会がいつもいつまでも続く世の中を創りたい。一言でいうと「世界平和」を実現したいと考えています。「世界平和」というと、随分と大きなことを言っているなと思う人もいるかもしれません。ただ私は、政治家はビジョンを示してそれを一歩でも前に進めることが役割だと考えています。

そして「世界平和」を実現するために私は、2030年代に「総理大臣」を目指すと公言しました。

2010年から政治活動を始め、現在で14年目。2039年まではあと16年ですが、30年間本気で政治家をやって日本の総理大臣にもなれていないようであれば、目標に掲げる「世界平和」の実現にはとてもとても到達できないとシンプルに思ったからです。

中卒の私が貧困と暴力を根絶するために政治家を目指すと決めた時、「そんなの無理に決まってるだろ」と言われ、周囲の多くの人から馬鹿にされました。ただ、衆議院議員になった今の私が世界平和を実現するために総理大臣を目指すと言っても、あの時ほど無理だと笑う人は少ないように感じます。

私の人生は、いつも精一杯背伸びをして、アキレス腱が切れそうなくらい背伸びして、生きて参りました。これからも大言壮語で大きな夢を語りながら、時代の歩みを前に進めていきたいと思います。

今の政治に最も足りないものは、市民生活に対する想像力と社会的弱者に対する共感力だと思っています。多くの国民の皆様と同じ環境・視線を持って育ったことを強みにしながら、背伸びしすぎて転んでも、歩みを止めず前に進み続ける覚悟で、世のため、人のために粉骨砕身頑張りたいと思います。

無理なんじゃなくて、どうやったらできるかなということ考え、誰かがその一歩を踏み出すことで、道が切り拓けると確信を持っていますので、皆様と共に力を合わせてより良い時代を共創できたらそれほど嬉しいことはありません。

この記事の監修者
政治ドットコム 編集部
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